インタビュー・対談記事関連
貸本「大旋風」第2号(1960年2月2日発行/すずらん出版)P42
作家訪問 たのもう 1 白土三平先生の巻

わが幼なき頃、漫画界に吉本三平なる大先生ありき。われ長じて編集に携わるとき、そこにまた時代の脚光を浴びて三平先生あり、その姓白土。―というわけで、何はともあれ、"たのもう"第一回は、白土三平先生に御登場願おう。ここは、いまたに草葺屋根の見られる東京郊外。そこに三平先生のお住居があり、そこからまた百メートルばかり行ったところに〈忍者工房〉ともよぶべきアトリエがある。開口一番、「今朝五時までなんだよ。頭がボーとしちゃってて………」「いいんですかお邪魔して……」「どうぞどうぞ、どうせあと二晩ぐらい寝られそうにないんだから」物凄いファイトである。どちらかというとキャシャな方で、スマートなこの先生のどこにこんなエネルギーがあるのかと思われる程だが、結局、漫画の未踏分野開拓への情熱!すべてはその一語に尽きるのだろう。先生にはじめてお目にかかるまでは、気むずかしい方ときいていた。ところが……である。これはとんだ見当はずれであった。滔々と立板に水!次から次へと巧みな話術にのって言葉が飛び出してくる。実に話題も豊富なのである。ここへ引越して来られる前の家で………「水害でヒドイ目にあってねえ。丁度忍者物で水の場面を描いてたんだ、そしたら畳がプカプカ浮いてきちゃうんだから……」とのこと。「先生が一番たのしいのはどんな時ですか?」即座に曰く「ストーリーを組んでいる時。」なるほど。いかにも作家志望だった先生らしい。趣味も読書、ことに飜訳ものだそうだ。話はずんでついにミステリー文学論に発展。とにかくお話していて、研ぎすまされた刃物のようなものをビリビリ感じる。ここに先生の作品構成の秘密がひそんでいるようだ。先生の尊父は高名な洋画家、令弟また然り。まさにキャンバス一家である。「ところで先生、失礼ですが明けておいくつになられました?」「去年に一つ加えただけ、ワッハハ……(ゴモットモ!)一体いくつに見えますか?あっそうそう、家の方にメシの支度が出来てる頃ですよ。昼飯にしましょうや。」という次第でファンには申訳ないことながら、お齢をきき出す機をにがした。では、拙者ここらで失礼ツカマツル。 (S)
1960年初頭、白土初のインタビュー記事。書いているのは島本正靖。窪庭忠男のブログ記事によると、この文章内で父について触れたことに白土が不快感を示し、貸本「大旋風」は第3号で終了している。白土は1960年2月までは27歳だが、数え年で1960年は29歳。数え年は生まれた時を1歳とし(母親のお腹の中に居る期間を加味)、以降新年元旦を境に一つ歳をとる、といった年齢の数え方。ちなみにこの年1月発行の第1号に掲載の白土作品は「狼煙」で、第2号は「雨を呼ぶ男」、3月発行の第3号は「松喰虫」となっている。
「週刊アサヒ芸能」1960年8月14日号(アサヒ芸能出版)P30-32
マスコミの知らないベスト・セラー 子供を相手に百万部稼ぐ

(以下内容より一部抄出)
貸本屋の危機救った"白土漫画"
ここ数年来、貸本屋業界の"儲けさせる作家"のベスト・テンのトップは、山手樹一郎氏の独走だった。ところが、最近、無名の新鋭スターが、その王座を奪ってしまったのだ。 新しき貸本界のトップ・スターは、その名を白土三平という二十八歳の"漫画家"である。

全国貸本組合連合会の田中利弥理事長は、「白土さんは、マンガよりも作家として人気があります。というのは、出身が紙芝居を描いていただけに、子供の心理をうまくつかんだスジをたてる。 これがベスト・セラー作家といわれる原因でしょう。ストーリーの運びのテンポが速く、子供でも大人でもらくな気持で読むことができる。絵にも迫力があり、ちょっぴり世相にあった"残酷"さもある」と語っている。

本名は岡本昇といい、父親は洋画家だそうだ。「ぼくが漫画を描いているということが、父の名誉にかかわるので、父の名前はどうしてもいえない」という。男三人、女一人の兄弟の長男として育った。 夫人は、「近い将来、ゆっくり仕事の出来るアトリエをつくってあげたい。漫画だけでなしに、おとうさんに負けない、本当の油絵も画いてもらいたいものです。そのためには貯金もしています」と、長男の創一ちゃん(二つ)を抱いて語っている。
1960年半ば、白土初の週刊誌(マスコミ)へのインタビュー交えた記事。この記事内で初めて白土の写真がメディアに登場する。内容は推測からの勝手な作り話や間違いも多いが、当時の白土の原稿料など貴重な資料的データが載る。「全国貸本新聞」の第37号2面(1960年9月12日発行)と第38号5面(1960年10月12日発行)には、この記事の一部内容に対して長井と白土が不快に思った旨が載っている。

※掲載の白土近影写真
「歴史読本」1963年9月号(人物往来社)P112-113
正史を描くマンガ家・白土三平

(以下内容より一部抄出)
「いわゆる英雄といわれる人は歴史の発展法則にあったある瞬間をうまくつかみ、利用した人間にすぎないと思うんです。影丸も、あの戦国乱世の世を戦いぬき歴史の頁をめくったその原動力である人々の姿を、仮に影丸という人物にしぼって表わしたつもりです。歴史というものは個人の力で動くものじゃありません」
また、主要登場人物がほとんど死に絶えてしまうことにも、何ものも動かすことの出来ない歴史の必然性としてあっさりと割り切っているが、それは死というものを通して人間が社会変革の物質的主体とならねばならない、と思うからだという。このような態度は今までの時代漫画には見られないものだ。
「自分なりに新しいものをうち出そうとしたのですが、従来のものを破るためには自然、他の悪い面も出たかも知れません」
残酷だとの評には白土さんはこう答える。
白土三平の仕事場を訪ねてのインタビュー記事。近影写真一枚(「美術手帖」1964年4月号でも使用)。
「朝日ジャーナル」1964年2月16日号(朝日新聞社)
白土三平の漫画発想 忍者 - 社会矛盾の裁断者

(以下内容より一部抄出)
白土三平。といっても本誌の読者の大半はその名を知らないであろう。

白土三平氏に会う。練馬の豊島園の先の場末の町の木造アパートに住んでいる。気取りのない率直な人柄と見たが、若いのにヒゲなどはやして、無愛想で、一見変り者みたいでもある。はじめ訥弁だったが、質問にははっきりよく考えて答えてくれる。昭和七年生れ、父親が画家で自分も油絵を勉強したが、とくに学校へは行っていないという。

失礼な質問だが、残酷描写はあなたの内的な欲求から出てきたのですか、それとも出版元の注文ですか、と聞いてみる。当然の答えだが、いえ、それは私自身の内側から出たものです、という。子どものころ、学校で、ものを教えるのに途中までしか見せてくれないという不満を感じたという。なんでも隠してしまう嘘デタラメの歴史教育にたいする反発があり、残酷なことでも書いているうちに途中でやめないことにしようと思ったそうである。しかし自分は残酷趣味の人間ではないと思っている。なぜなら、ある種の残酷は身ぶるいするほどきらいだからだという。

戦後、関西の紙芝居が残酷描写でヒットして東京の紙芝居を圧迫したことがあるそうである。それは因果関係にからんだネチネチしたグロテスク趣味で、悪いヤツがあわれな子どもを地面にたたきつけ、その目玉がとび出して神経が露出するといった絵で、そういう感覚だけの残忍さはすごくいやだった。当時、東京の紙芝居の人たちが集って、この種のえげつない関西の商業主義にどう対抗するか相談したが、東京は東京で、あくまで良心的にやってゆこうということになったそうである。

もっとも、意図は良くても、残酷なものをたくさん見ているとだんだん感覚がマヒして、残酷と感じなくなるということもある。その点は自分でもずいぶん考えて、なかなか答えが出ないという。

問題はやはり、残酷の質にかかってくるだろう。ナチスや旧日本軍の残虐行為が公にされている今日、またベトナムの僧侶の焼身自殺の本物の写真が子どもの目にも触れる今日、子どもだけは一さい汚れを知らない無菌状態にあるかのように扱うことも非現実的であろう。
1964年初頭の記事。上はそこから白土インタビューの箇所を抜粋したもの。書いているのは佐藤忠男。 この記事は冊子「ガロの世界」(1967年10月24日発行/青林堂)や、単行本「マンガ批評大系」第1巻(1989年2月23日発行/平凡社)にも再掲載され、上のものは「ガロの世界」から孫引きした。 残酷描写が子供たちに受けるのは、関西の商業主義的紙芝居から始まっているのだといえるような興味深いことが書いてある。 関西の「劇画工房」関連では、「月刊漫画ガロ」1966年7月号編集後記に白土が 「劇画の本家とも言える佐藤まさあき氏の長編連載が次号からはじまります。これは、佐藤まさあきの代表作といわれる大長編「黒い傷痕の男」を「ガロ」のために新版として書き改めたもので、佐藤劇画の本領であるアクションを盛り込んだ「社会もの」です。ご期待ください」 と書いているが、結局連載はならなかった。 これの「描き直し版」は佐藤プロから描き下ろし単行本(佐藤まさあき劇画叢書)として、同年の8月下旬と9月下旬に全2巻で刊行された。 1973年に佐藤はこの作品をもう一度セルフリメイクし「漫画ゴラク」に連載、2000年にサニー出版から刊行された完全版全2巻はこの2度目の描き直し版である。 1961年から1962年にかけて三洋社から発行された元々の貸本「黒い傷痕の男」全10巻は、復刻されていないため現在容易に入手できる状態に無い。
「美術手帖」1964年4月号(美術出版社)P102
漫画家との 3 minutes INTERVIEW 白土三平

白土三平氏は、いまや冬眠中である。だが、その冬眠中に、彼は週刊誌などでさんさんと光を浴びている。なぜ冬眠中かというと、降るようにくる仕事を断って、貸本の書下し漫画の構想を練るために、一切の活動をやめているからである(ただし雑誌「少年」連載の『サスケ』は別である)。ひあがるまで他の仕事はひきうけないというのだが。

― 貸本漫画「忍者武芸帳」十八巻は、人間の興亡を大きな流れの中に捉えて手塚治虫の「ジャングル大帝」に匹敵する叙事詩だといわれているが。
最初からその意図はあった。だが批評家の説明するほど巧みに企てたのではなく、登場人物たちがドラマの展開につれてどんどん動いていった。叙事詩のスタイルといわれるのは、おそらくショーロホフの「静かなるドン」など大河小説の影響を受けているのだろう。

― 残酷すぎるという批評もあるが。
残酷シーンは、迷った。一人の乞食娘がむかし命を救ってくれた剣客の恩に報いようと、わが身に火を放って狼火(のろし)になろうとする場面で僕は、迷った。その精神の美しさのみを描くか、あるいはその焼けこげた屍体の醜さも描くか。僕は同時に屍体も描くことを選んだ。それがいわゆる僕の残酷シーンの開眼になった。

― 子供達との結合意識は?
ある児童心理の雑誌で、「よい漫画悪い漫画」という題でその理由をたくさんあげているのをみたが勇気あるね。そもそも大人の漫画も子供の漫画もよく調べると区別はない。漫画というのはそういうものだ。が世の中は、そういう風にはなっていない、僕のものでも少年雑誌のものはそうはいかない。その点貸本漫画の世界は自由だ。読者は高校生大学生も多い。

― 「忍者武芸帳」はその思想うんぬんまでいわれているようだが。
安保闘争への批判だといってくれた人もいたが……確かに安保には参加しましたよ、行くぐらい誰だって行けるでしょう。

― 忍者ものが圧倒的だが。
別にブームにのったわけではない。ブームよりずっとこちらが早いのだから。小さい時、信州の田舎にいて、家にたくさんあった立川文庫を冬のコタツの中で読んだせいだろうか。

― 手塚治虫を継ぐのはあなただといわれているが。
とても……。僕のは訴えがどうしても生(なま)にでる。手塚さんのは、生がとれて、ほんとうの創作になる。紙芝居をやっていたころ、いわゆるユーモア漫画で、手塚さんを勉強した。

― 人間嫌いといううわさがあるが?
小さな時(戦時中)、皆が手をあげているのに自分だけどうしても手をあげられないといったところがあった、だれもが信用できず、自分を保つためにあらゆる心理の防壁をはりめぐらした。そのなごりがそうみせるのだろう。

ひあがるまでは、どこにもかかないという持説を目下曲げようとしない白土三平氏は、いまやりたいこと、これからやりたいことがたくさんあるという。自分一人ですべてをやるとうスタイルを壊さなければならないですねと水を向けると、この冬眠中の主は、うなずいて、この僕の非社会的な線、非社会への未練をなくさなければ到底不可能だといった。 (K)
1964年春のインタビュー記事。書いているのは草森紳一。1967年にこの記事が収録された単行本より追記部分の内一部を下に載せる。

いまはちがうが、当時白土三平宅には電話がなかった。電話嫌いで、人間嫌いなので、電話をおいていないのだという噂であった。ちょうど「漫画サンデー」のK君が直接たずねてしまうというので、それで僕も便乗してついていったのだ。たずねてしまえば勝だという、ジャーナリズム根性でいさぎよくなかったのだが、ともかく逢うことができた。ひげをはやしているとばかり思ったが、その時は綺麗にそっていた。このころ彼は冬眠中であった。安保闘争終焉期のころを第一次白土ブームだとすれば、その二・三年後のインタビュー当時は第二次白土ブームであった。もっともこのブームは、マスコミの太鼓の音であって、なんら実質のともなわないものであるが。週刊誌は、さかんに白土三平をとりあげていたが、いれかわりに彼は冬眠を決行していた。友人のK君も、大人のマンガ雑誌に彼を登場させようとしたのだが、けっきょく彼を説得することができなかった。

この記事に掲載の白土近影写真にヒゲは無い。貸本漫画「忍者武芸帳」十八巻、とあるがこれは間違いで全17冊。「わが身に火を放って…」と白土が語る作品は「狼煙」で、2008年刊行の「単行本未収録傑作選 鬼」で復刻されている。立川文庫は明治末から大正末にかけて発行されていた子供用の本のシリーズ。駄菓子屋・玩具屋などでも売っていた。持ち歩ける様、今の文庫本より一回り小さいサイズで「猿飛佐助」「霧隠才蔵」「百々地三太夫」「宮本武蔵」「水戸黄門」など様々あり、漢字を多用しているが総ルビだった。


※「美術手帖」1964年4月号(美術出版社)表紙
※「マンガ考」草森紳一(1967年5月25日発行/コダマプレス社)表紙
※「美術手帖」2008年12月号(美術出版社)表紙
※「美術手帖」2008年12月号(美術出版社)P224 ※1964年4月号所収のインタビュー全1頁のスキャンデータがそのまま掲載されている(P246には再録理由あり)
「週刊平凡」1964年4月2日号(平凡出版)P88
誌上討論会 オトナをおどろかせたコドモの漫画

(以下内容より一部抄出)
「味方のヒーローも殺され、美少女も殺される。この作品は、農民一揆を通じて、人間のもつ残虐性を描いたものですが、そこにはたしかな歴史の裏づけがあり、そのような部分的な残虐シーンから、子供が悪影響を受けるとは思いません。今の子供は、現実と物語を混同するほどバカじゃありませんよ」と語るのは、映画監督の大島渚氏。大島氏はこの作品を映画化したいといっているほどのホレこみようだ。

ここで、作者の白土三平氏の意見をきいてみると、「それが、たとえ子供たちにとって刺激的なものであっても、ぼくは真実を描きたかったし、そのためには事実を歪めることはできなかった」といっているのだが・・・・。

豊島区東長崎にある貸本屋さんの"かどや書房"の話によると、いちばん子供たちに読まれているのが「忍者武芸帳」、つぎが「鉄人28号」(横山光輝作)、「鉄腕アトム」(手塚治虫作)など科学戦争ものだという。
貸本屋内部の写真のキャプションには「1日15〜20円で「鉄腕アトム」「忍者武芸帳」も借りられる」とある。大島渚監督の映画「忍者武芸帳」公開はこの3年後の1967年。
「日本読書新聞」1964年9月21日月曜日付(日本出版協会) 1面
残酷マンガと"唯物史観" 白土三平氏の世界

(以下内容より一部抄出)
九月九日の東京新聞のコラム「砂時計」で、村山知義が奇妙なことを書いている。彼の言によれば、最近の忍者ばやりは大人のものとばかり思って安心していたら、それが「とうとう忍者ブームは子どものものにまでおよんで来た」のだそうである。 村山氏は、本屋の店頭で子どもマンガに忍者物が氾濫しているのを、数カ月前に発見したのだそうである。 はじめて、「忍者をリアリスティックに、歴的史(ママ)に扱った」と自認する村山氏は、子どもの世界での残酷忍者マンガをみるにつけ、「ああ、こういうことが、わたしの責任であろうか?」と、しきりに責任を感じているらしい。 なんとも奇妙な話である。というのは、子どもマンガの世界における忍者ブームは、大人の世界の忍者物よりはるかに先行している。これは貸本屋のジャリ・マンガを、時たまのぞいていた人間なら、誰でも知っているはずのことである。 『忍びの者』がでたとき、とうとう忍者ブームは大人にまでおよんだか、というのが子どもマンガに接していた連中の感想だった。話があべこべだ。だから村山氏は、忍者マンガの横行に責任など感じなくてよい。 むしろ、いま頃になって、忍者ブームが子どもにまでおよんできたなどといっている時代ズレに、すこしばかりの責任をもって欲しい。 歴史的でリアルな忍者物ということなら、子どもマンガの世界には、『忍びの者』に先立って画きはじめられた『忍者武芸帖』全一六巻の大河ロマンがある。作者は、昭和七年生れの白土三平。 その白土は、いま、大根畑が残る練馬の奥の木造アパートで、第二の忍者武芸帖とでもいうべき次の大作にとりかかろうとしている。 "雑誌「少年」に連載の『サスケ』は、ひとまず打ちきりにする。その他の仕事も整理して、二年ほど長篇に集中するつもりだ"と彼は、わたしに語った。

紙芝居作家→劇団「太郎座」の美術担当→マンガ下請けと、二転三転しながら、子どもの世界に接近した白土は、当初はわりにオトナシイものを画いていた。 しかし、画風は『狼煙・のろし』という作品あたりで一変する。隠密にあやういところを救われた一少女が、隠密の危機に、彼に代って合図の狼煙をあげようとする。 生憎とあたりに付木がみあたらない。事態は急、敵は迫る。意を決した少女は、おのれの着衣に火を放って狼煙をあげる。黒焦げ無惨な死体がころがる。 後で聞くと、このときの白土は、狼煙のあがった次のカットに、焼けただれた少女の死体を画くか、画くまいかで、しばらくとまどっている。そして命を賭けた少女の気持ちを、たしかなものとして表現するには、死体を画く以外にてだてがないと決心する。 残酷開眼である。その背後には、彼の唯物的な史観がある。 白土マンガの残酷が残酷だけに終らず、殺しが殺しだけにとどまらないのは、それが遠くからきたって遠くへとおもむく人間史の軌跡として画かれているからに他ならない。 彼のマンガの主人公は、歴史そのもの、もしくは時代そのものである。だから支配者と被支配者はいるが、いわゆる善玉・悪玉は存在しない、白土マンガの、卓抜性は子どもマンガの世界にあって、善玉対悪玉の勧善懲悪物語の制限を突き破ってみせたところにある。 そこに白土マンガの毒があり、薬があるといってよい。

やたらと人を殺すだけの凡百の残酷マンガが、白土におよばないのは当然のことなのである。 『忍者武芸帳』以後、白土は、『シートン動物記』を画き、『サスケ』を連載する。彼が得たものは、前者で児童漫画賞、後者でそれ以前よりはましな画料であった。そして失なったものも大きかった。それは、誰より白土自身が、よく知っている筈である。 文学作品を種本にして、それをなぞった絵物語動物記や、その都度ごとのストオリイや新奇な忍法の紹介で話をつなげたサスケ物は白土の本領ではない。それを知っていればこそ、彼は、ふたたび長篇を志ざしたのであろう。 "アイヌのシャクシャイン叛乱が背景に入る。未解放部落の人間も、主人公の一人として登場する予定です。"と彼は、次の作品を暗示している。 貸本屋ブームはすでに峠をこえた。マンガ単行本の売れゆきもテレビと結合しないかぎり落ち目となった。白土の長篇の成功を約束する状況は、どこにもない。 だが彼も、時代の制約をこえようとする者の一人なのだから、わたしたちは、互いに期待する以外にないだろう。
1964年半ばのインタビュー交えた記事。書いているのは野村重男。 「次号からはじめる作品について」が載る「月刊漫画ガロ」1964年11月号(第3号)発売とほぼ同時期公開の一面記事で、まさに「カムイ伝」前夜である。 この約3カ月後、同年12月14日付の同新聞には「白土三平「ガロ」好調」という見出しの記事が載ったが、創刊号の発売から5カ月弱、第5号(「カムイ伝」連載第2回目掲載号)までしか発売していない状態で本当に好調とは考えにくい、同記事には「(ガロの)発行部数は約三万」とある。

忍術ブームは明治・大正時代の「立川文庫」から始まっている。 その後有名なところでは1956年2月から1958年12月にかけて五味康祐の小説「柳生武芸帳」が「週刊新潮」(新潮社)に連載され(1957年4月と1958年1月に映画化している)、1957年7月から1959年5月にかけて村上元上の小説「真田十勇士」が「別冊週刊朝日」(朝日新聞社)に連載された。 白土三平は「美術手帖」1964年4月号のインタビューでも語っている通り、「立川文庫」から「柳生武芸帳」「真田十勇士」の影響もあってか1957年11月に「甲賀武芸帳」を発行、1958年末頃に「嵐の忍者」、と忍者漫画を描き始めている。 1958年12月から1959年11月にかけて山田風太郎の小説「甲賀忍法帖」が「面白倶楽部」(光文社)に連載されたのに続き、1960年11月から1962年5月まで村山知義の小説「忍びの者」が「赤旗日曜版」に連載された。 この「忍びの者」が1962年12月に市川雷蔵主演による大映映画となり、大人たちの間にあり得ないくらい大忍者ブームを引き起こしている。 たしかに「柳生武芸帳」は忍術モノに限定されない剣豪モノで、「真田十勇士」は村山が山田風太郎の忍術モノに対して言った「荒唐無稽さ」と同じ部類に思える。 あとになって村山は白土作品に対して「山田風太郎のような荒唐無稽さとはハッキリと一線を劃している」と評しているが、当時漫画に触れる機会のなかった村山の視点では「奇妙」と言われる考えも仕方なかったのかもしれない。 村山は、白土の父・岡本唐貴との古くからの友人(プロレタリア美術運動家)で、1970年発行の「白土三平選集」第16巻に寄稿をしている。上の文中の村山の発言もここから採った。 同じこの「白土三平選集」の寄稿文から、村山が「当時白土作品を知らなかった」という部分の発言を抄出し下に載せる。

白土三平が岡本唐貴の息子さんだということを知って吃驚(びっくり)した。岡本唐貴といえば、私のごくごく古くからの友人である。 一九二三年一月に私はドイツから帰って来て、「マヴォ」というアヴァンギャルドの芸術団体をつくった。岡本君たちは、翌年「造型」という同じような団体をつくった。 私の古いスクラップ・ブックを見ると、大正十四年(一九二五年)十二月に読売新聞紙上に、私がその「造型」を批判した「反動・ここにも反動」という文章を書いたのに対して、 岡本君は三日に亘って「造型への反動者、村山知義君に答う」という文章を書いている。
戦後、私は何回か岡本に会う機会があった。彼の著書「日本プロレタリア美術史」の出版記念会でも、 私の息子の嫁の像を彼が描いた時も、その他にも会っている。既に三平は独自な漫画家として、盛名を得始めていた時だのに、彼は一度もその息子のことを口に出さなかった。そのために私はほんの一手前まで、三平が彼の息子であることを知らなかった。 そして、その結果、私はまだ一度も三平に会ったことがない。
私は自身、絵描きでもあり、子供のための絵は長い間描いている。また漫画もいくらかは描いたことがある。 だのに彼の漫画は見たことがなかった。そういう機会がなかったのだ。 それが今度、偶然、「ワタリ」を全巻見る機会を得て吃驚し、彼のほかの作品も全部見たいと思うようになった。


※掲載の白土近影写真
「全国貸本新聞」第83号/1964年11月12日発行(全国貸本組合連合会)P2
人気作家巡り(その1) / 白土三平先生訪問記

(内容省略)
11月5日に白土宅を長井勝一の紹介で訪ねたインタビュー記事。
「アサヒグラフ」1964年12月25日号(朝日新聞社)P15-18
『正義の味方』を否定する -マンガ家・白土三平氏-

(以下内容より一部抄出)
「部分だけをみて残酷マンガだと判断されると弱るんですよ。ぼくが描きたいのは正義の味方なんてものではない。正義といわれるもののインチキさは、戦時中に育ったぼくらはよく知っているのですね。 それに、こどもに夢を―といわれますね。ぼくは、社会へ出るとダメになる夢じゃなく、世の風雪に耐えられる夢を与えたいんです。ぼくの持論は、生活は喜びでなくてはならない、ということで、 描きたいのは、その喜びを求めて力の限り闘った人間です。だからあるときには残酷と思われるほどリアルにもなるんですね」
と目を細めながらいう。

最近はある月刊マンガ誌に毎月百ページにもわたる連載を始めた。多忙な毎日だ。ロクロク眠る時間もない。マンガを書くのに必要な雑学を得る時間もない。
「すわってばかりいるので胃や尻を悪くしてしまいましてね」
ともこぼしている。
そこでプロダクションをつくる予定だという。名づけて「赤目プロ。」マンガ家は徹夜で目を赤くしているからだとか。アパートは三軒分を借りていて、仕事場の部屋と家族のいる部屋にインターホンが通じている。奥さんが雑誌編集者などの来訪を告げると、たくみにトン走の術を試みる。その仕事部屋にはってある紙きれは「宿人寄人諸法度」と書かれ、その最後がこうだった。
― コノ寄場オヨビ住人ニ利益ナキ者、立入リヲ禁ズ。
1964年末のインタビュー交えた記事。白土32歳。写真も多く、「部屋を出てよそへ出かけることはまれだ」というバイクに乗る白土近影写真(画像左)、「白土氏は一本のペンしか使わず 驚くほど細かくかきこんでゆく」というペンを持つ手元の写真、「仕事は午前十時ごろから夜中の一時ごろまで」という白土の写真、「仕事場の灰皿は 吸いがらでいっぱい 一日四、五十本を吸う」という灰皿の写真、最後にもう一枚大判の白土近影写真(画像中央)が載る。最後の写真のキャプションに「不衛生な男で 中学以来 顔を洗ったことも 歯をみがいたこともない これで生肉でもムシャムシャ食ってれば文句はないですね」とあり、本人が確実に怒るであろう悪意のあるものだが、こういったものは当時の週刊誌記事の性質上よくあったことである。この時撮影された白土近影写真の別カットのものが「アサヒグラフ」1967年11月24日号にも掲載されている(画像右)。写真は全て佐久間出版写真部員による撮影。本文に登場する「宿人寄人諸法度」というものが、水木しげるの自伝内でつげ義春や矢口高雄の語るものなのだろう。

※P15、P18、「アサヒグラフ」1967年11月24日号のP13

下はペンを持つ手元の写真の一部だが、ガロ原稿の上に「サスケ」の完成原稿(「少年」1964年6月号付録本掲載部分)を乗せ、撮影のためのポーズをとっている。サスケのセリフには「父ちゃんの奴どこえいったのかな‥」とある。この画像からは判りにくいが、ホワイト修正の痕やコマ番号の貼り付けもみえる。
※P16より
「週刊サンケイ」1965年8月23日号(産経新聞出版局)P12-16
新しい大学生 1.子どもマンガを愛読する 「そこにマルクス主義を読む楽しみ」

(以下内容より一部抄出)
「ガロ」の発行元である青林堂(東京・神田)の長井勝一氏は、このブームぶりをつぎのようにいう。
「ガロを発行して以来、毎日のようにここまで大学生が買いにきます。最初は不思議に思って"弟さんに頼まれたんですか"と聞くと、"いや、ボクが読むんです"と平気でいうんです。初めは中学、高校を対象にしていたのですが、いまじゃ、大学生や若いサラリーマンの方が多くみえますよ。先日などは京大の学生が、"上京したおりにファンとしてひと言あいさつしたくて"と汗をかきかきいらして、わたしどもを感激させました。別にどこの大学と伺いませんが、自分で名のられただけでも関大、明大、国士舘大、東大、早大といったぐあいです」

最近、"カムイ伝"の作者、白土三平氏は京大の大学院経済学部のある学生から、大要つぎのような手紙を受けとった。 "わたしは公式的、石頭的マルクス主義から新たな、なまなましい思想としてのマルクス主義の再生を、日夜、念じながら、勉強にはげんでいるものです。こうしたわたしの問題意識に、あなたのマンガはきわめて鋭く迫るものがある。まったく、全神経を緊張させて読んでいます…" 白土氏のマンガが、そのままマルクス主義のなまなましい思想に通じるというのである。この白土氏については、東大の加藤君も、「太宰治や大江健三郎が文学の中で人間を追求したように、白土氏もマンガで人間を追求している。太宰や大江が自分のまわりの厚い壁にぶつかり逃げ腰であるのに対し、カムイや正助(カムイ伝の主人公)は、厚い壁に全身でぶつかるんです」太宰治や大江健三郎にも比べられ、マルクス主義の再生者とも仰がれる白土氏とは、どんな男かというと、昭和七年生まれの、学歴は長野県の上田中学を卒業しただけの、マンガ家になるまでは紙芝居の絵かきだった。東京・練馬区春日町の古びたアパートの二部屋を借り、ヒゲはマンガを書くようになってから八年、そったことがない。
「マンガを書きはじめるまではマンガの世界がどんなものか、全然知らなかった。どうせやるなら自分の思っていることを、マンガを手段にして人びとに伝えたいと思ったのです。だから、マンガをかくようになって、ずいぶん歴史を勉強しましたよ。わたしのマンガは残酷だと、よくいわれる。でも、わたしはこの世の中は、根本的に残酷なものだと思うんです、たとえば才能のある少年が才能を伸ばす仕組みになっていない。もしくは伸ばしてはいけない、社会が規制している。これほど残酷なことはないはずだ。そうした残酷をリアリスティックにマンガで表現しようと努力しています。マルクス主義?それは聞いたことはありますがね、とくに勉強したことはありません。わたしはむしろ、大学生にコンプレックスをもっているんですが…」
実に不思議な現象である。大学生にとっては、原書を何十冊も読み、生涯をかけてマルクシズムを研究してきた大学教授の教えよりも、中学を出ただけで、歴史を勉強しながら書いている白土氏の教えのほうが、よくわかるというのだから…。

それでは、その学生はバカなのだろうか。東大の加藤君はことしになってマルクス・エンゲルス全集を読みはじめ、いま六巻目だという。そうして加藤君の主張によると、マンガは単純な読み物ではない。東大生は、カントやニーチェ、ヘーゲルだけは読まねばならないという権威主義を捨て去り、あらゆるものから栄養を吸収すべきであるというのである。いったいどういうものが、大学生の精神生活の栄養になっているのか。白土氏の"カムイ伝"の筋道を紹介してみよう。このマンガは「ガロ」に昨年十二月から連載されてすでに十号、千ページを越しているが、なお、三年つづく予定という大長編マンガである。

ストーリーを読むと、階級制度に対する反発はたしかに認められる。そこが、大学生たちには、マルクス主義をハダで感じさせるらしい。とすると、このマンガの効果は、大学生たちが専門書で読んだ抽象的な知識を、マンガの絵を実際にみることによってオサライし、やっとほんとうに理解できるのではないだろうか。
1965年半ばのインタビュー交えた記事。この記事は「戦後二十年、あらゆるものが変わってきた。その中でも女性とともに大きく変わったのが大学生。いまの彼らのやることには、頭をひねることが多い。子どもマンガを読む、オシャレをする、高級下宿に住む…。いったい彼らは、どんなつもりなのか…。これで、社会が期待する社会人が生まれるのか…。この三つの特集記事を読んで、読者の皆さまに、いろいろ考えていただきたいと思う」という文章で始まる特集の一つ。当時の一般的感覚に沿った皮肉を込めた内容で、同年7月31日に開かれた水木しげる出席のガロ座談会の模様のほか、大学生、大学教授、手塚治虫へのインタビューなどが含まれている。こういった記事のインタビュー内容には誇張が付きものなので当然そのまま鵜呑みにはできない。 ただすでに1964年末の「日本読書新聞」(1964年11月16日付7面)に「日本の大学生は十才?」という見出しで「京大新聞の読書調査で、「少年サンデー」がベスト5にはいったという。新聞部では仰天して、片すみで目立たぬように扱うことにしたらしい。ぼくならば、「日本の大学生は十才」ぐらいの大見出しで、特筆大書すべきところなのだが」という、これと同じような主張の記事が載っている。

ついでに手塚治虫インタビューの部分を抜き出してみる。取り上げられている手塚作品は週刊少年サンデー版「ワンダースリー」。

手塚氏のマンガはSF調だがあくまでも、子どもの世界の出来ごとである。さすがに、このマンガが人生の教訓になるという大学生はいないが、人気はあるのだ。その証拠に、手塚氏のところにくるファンレターの二〇%は大学生からのものである。 本人はその理由を、「おとなのマンガにおもしろ味がないからでしょう。エロとニュースものを追いかけているだけ。出版社でも、エロさえ書けば当たるという迷信をあいかわらずもっているから、こんなことになる」と、それ以外には考えられないそうだ。

※掲載の白土近影写真
「日本読書新聞」1965年9月6日月曜日付(日本出版協会) 2面
月刊漫画誌「ガロ」創刊一周年 白土三平氏を訪ねる

(以下内容より一部抄出)
「ガロ」に長編「カムイ伝」を書きつづけてきている白土さんに"白土マンガ"の意図するところを聞いてみよう―

「唯物史観だとよく言われるがそういう意識がないと言えば、うそになりますが、自分ではそう意識していない。口でいうとあまりうまく表現できませんが、現在でいえば、アメリカが自由を防衛するなどといっているときに、 ベトナムなど関係ないという人がいなくなるように、赤だというだけでレッテルにならないような社会にしたいという気持は常にあります」

なにかといえば、"残酷マンガ"などといいたがる、"良識派"が世の中には多い。
「人間には残酷な行動をする可能性がいつもあるから、ふだんから人間のそういう面を知っていれば、残酷な行為などできなくなるはずだ。それは現象面の残酷さのみを否定して、本質的な残酷さを見ない人でも、 外科手術そのものは残酷であるが、その目的を忘れてはならないことの例で理解できるはずだ」

いつもは夏に、ヒゲもそり、ボウズになるという白土さんも、今夏ばっかりは、精力的にふるまおうと、写真のように、髪の毛も、ヒゲも伸び放題。現在、十二指腸潰瘍が悪いというが顔も真黒に陽に焼けて、 「どっこい後へは引かない」という精かんな顔つきで、まだ学校に行かない二人の子供をひざにだきながら、話はあっちへ脱線、こっちへ脱線。 「忍者武芸帳」を描き始める前から、構想を練っていた「カムイ伝」は全三部完結の予定だが、まだ序の口の第一部が連載中。これから、幕末、明治を舞台にした作品も発表してゆこうという白土さんには「カムイ伝」の遅々とした歩みがまだるっこく感じられるらしい。
1965年半ばのインタビュー交えた記事。書いているのは権藤晋。この記事は冊子「ガロの世界」(1967年10月24日発行/青林堂)にも再掲載された。当時「白土は人間嫌い」という定説が広まっていたが、「ガロの世界」に再収録されたほかの記事の中から長井勝一の言を引用すると「私は彼ほど人間を愛している男はいないと思いますね」(「内外タイムズ」1965年9月9日号)、「もし、世の中に誠実というものがあるなら、それは三平さんの持っているような、やさしい気持をいうのでしょう」(「週刊朝日」1966年12月2日号)とある。しかしこの「人間嫌い」定説はこの後も長く続く。

※掲載の白土近影写真
「週刊現代」1965年10月28日号(講談社)P100-104
人物ジャッジペーパー14 大学生が唯物史観を学ぶ白土マンガ

(以下内容より一部抄出)
「漫画家―もうこう呼ぶ時代ではない。白土氏の場合、レッキとした作家なのである」
(虫プロダクション・桑田裕常務取締役)

「感心させられるのは、彼のかく庶民の顔だ。二枚目の顔はかきやすい。だが、世間にありそうな顔となると、ああ的確にかけるものではない」
(画家・山本耀也氏)

「さあ、私の収入はどれくらいになりますかな。赤目プロは八人でやってますが、社員である製作部員には月に一人十五万円は払ってるから、私個人の収入は、それより下回っている、ということはないでしょうね」 個人所得の長者番付に位する漫画家たちの、足元にも及ばないのは事実のようだ。「ガロ」の出版元、青林堂の長井社長までが、「今年の九月までは毎号五、六十万円の赤字でした。貸本屋時代のクチコミから、近ごろになってやっとマスコミに乗りました。 おかげで、十一月号からはトントンになると期待しているんですが…」といった調子だ。赤目プロのスタッフの一人、岩崎氏に至っては、傑作である。 「利益の配分ですか。全く公平無私。山賊の山分け、といった感じです」

「唯物史観に裏打ちされている」という世評に対して三平氏は、こう告白する。 「勉強しなかった、といえばウソになる。弟たち(赤目プロの同人で実弟の岡本真氏ら)のいうように、プロレタリア画家の父親からの影響もあるでしょう。しかし、ぼく自身、それをあまり意識したくない。自分の過去の生活体験をそのままぶつけて書いているにすぎない、 こう考えるんです。いつも貧しくて、いつも怒りをこめて生きていましたから……」

ある少年雑誌の編集であるS氏は、「原稿をお願いすると、自分のスケジュールとにらみ合わせながら、できる自信のあるものだけを引き受ける。"何月何日の何時まで"といったら、必ずその時間にはでき上がってしまう。 締め切りの約束をうっかり日曜日とか祭日に決めることがあります。その日になってこちらが気づいて一日延ばしにしたりすると、ご機嫌がわるいんです」といっている。加太こうじ氏も、白土氏の一面をこうつけ加えている。 「漫画家には自宅と出版社とバーという生活の三角関係がよくできるが、三ちゃんは全くの例外。酒はいくらか飲むにしても、女のいる店では飲まない。マージャンもやらない。花札もやらない。下宿にいたころは、よくスモウをとっていた」

「家にいないときは、図書館で彼を探せと、われわれ仲間でこういわれている。それほど勉強家なんです」(虫プロ・桑田氏)
1965年のインタビュー記事。

※掲載の白土近影写真
「別冊少年ブック風魔・総集編」(1966年7月30日発行/集英社)P366-367
白土三平先生と一問一答

先生から、お話をきくのはむずかしい。生まれたところはときけば「はっきりわからない」いままでに好きな作品は「ない」これから、おかきになりたい作品は「いろいろある」いままでにくろうしたことは「数えきれない」という。

― 先生は小さいときから、まんが家になりたかったんですか?
とんでもない。どうしても動物学者になりたかった。

― 少年時代によんで、よかった本はなんですか?
ファーブルの「昆虫記」など

― では、なぜ、まんが家になったんでしょう?
食うために。

― 忍者まんがをおかきになることが多いようですが?
忍者は、自分の才能を限界ギリギリまで、はっきして、生きていく例として、とてもおもしろいからです。

― 好きなスポーツは?
たいていのスポーツはすき。しゅみはつりだ。

― テレビまんががいろいろありますが、ごらんになりますか?
みたいが、みてたら、仕事ができないから、みていない。

― なくて七クセといいますが、先生のクセは?
子どものときは、うれしいにつけ、かなしいにつけ、木にのぼるくせがあったが・・・・

― まんが家になるには、どんなことを勉強したらいいでしょうか?
自分のもちあじにそって、とくいなものに集中すること。

― では、まんが家になるには、どんな才能がいるのでしょうか?
一番たいせつなのはねばり。

― 春夏秋冬のうち、すきな季節がありますか?
それぞれの季節におもしろさがあるから、いちがいにいえない。

― 旅行がおすきだそうですが?
各地のうまいものをたべたり、うつくしいけしきをみたりしにいきたいのだが、けっきょくは、プランをねりにいくことになってしまう。

― 読者にひとこと?
作品の内容をよんで、きびしく、ひひょうしてください。
1966年半ばのインタビュー記事。構成は平野章三。30分間のインタビューと記述がある。子供向けで平仮名が多い。収録作品は「風魔」

※掲載の白土近影写真
「高2コース」1967年7月号(学習研究社)P88-91
誌上対談 平和をねがう戦いのドラマ

(内容省略)
加太こうじとの対談風記事。以下の文からはじまる。

この対談は、白土三平さんと先輩の加太こうじさんに会っていただいたという仮定のもとに構成しました。したがって、白土三平さんには、発言上の責任はいっさいありません。-編集部-

続いて「先輩であり、隣人でもあった加太こうじ先生に人気の秘密を探っていただいた」ともあるので、加太こうじへの単独インタビューを対談風に構成したものなのだろう。 白土の発言に「白土は母方の姓です」「昭和七年に兵庫県で生まれました」などと間違った記載があるのも、加太の記憶違い、あるいは編集部のミスによるものだろう。 内容に特記するような部分はなく、当時大人気だった白土三平に関する企画を載せることで読者を楽しませているといったところだろうか。 対談ではなく白土の全く関与しない「対談風記事」(イミテーション)なのでこの頁に載せようかを迷ったが、一応入れておく。
「別冊少年ブック真田剣流・真田忍群の巻」(1967年7月30日発行/集英社)P345
白土先生にきく

― いまの子どもたちはスポーツがたいへん好きですけど、先生は少年のころどうでしたか?
ぼくらが子どものころは、いまのようにスポーツ用具にめぐまれていなかったけど、ぼくも大好きだった。もちろん、いまもそうだ。ひまさえあったら、どんなスポーツでもやってみたい。

― スポーツをやりたくても場所がない子もいますね。
そう。そういうてんは、ぼくらが子どものころはよかった。ひろい野原を、おもうぞんぶんかけまわれたからね。

― 忍者ごっこはやりましたか?
もちろんチャンバラごっこもやったりしたね。

― その子どもがいま、忍者まんがをかいているわけですね
子どものころは、動物学者になりたかった。動物がすきでね。だから、シートンの「動物記」なんか、むちゅうでよんだもんだ。

― それで、先生のまんがには、動物がよくでてきて、いきいきと描かれているんですね。
動物は自然の条件にそってじぶんの力で、せいいっぱい生きている。わたしは、そういうところが好きなんだ。

― 忍者もじぶんの力で、せいいっぱい戦って生きているのですね
うん、生きるか死ぬかだ!そういうきびしい生きかたをする人がすきだ。弱ければ殺される。殺されないためにからだをきたえ業をみがかなければならない。

― 人間は強くなくてはいけないということ!?
そう、苦しくてもがんばれ、負けたらおしまいだ。みなさんも、じぶんをきたえて強くなってほしいね。
1967年半ばのインタビュー記事。構成は深谷道朗。子供向けで平仮名が多い。収録作品は「真田剣流」
「宝石」1968年8月号(光文社)P219-222,224
写真嫌いNo.1 白土三平の素顔

写真嫌いには定評がある。TV、雑誌、新聞のカメラマン泣かせNo.1。"有名説"をとことん嫌う。そのため「人間嫌いなんじゃないか」との推測さえ生まれた。京都のある大学で、卒論に「白土三平論」が登場して話題となった。一昨年のことである。大学生がマンガを読むとは ― マンガ文化をめぐって、百花斉放(ひゃっかせいほう)の論戦が起こった。しかし、今では、大学生がマンガを読むのはニュースにならなくなった。白土氏の「カムイ伝」を連載している「ガロ」(月刊)の読者層は、八割までが大学生だという。白土流のいいまわしを借りるなら、"ようやくにして市民権を得た劇画も、その一瞬から、空洞化への危険な傾斜をみないわけにはいかぬ。奇怪なことだが、そこに弁証法的……"そのせいかどうか、現在の白土氏の執筆ぶりは遅遅として進まず、文字通り骨身を削るようなありさま。「カムイ伝」は連載四十数回におよび、単行本にして十数巻を数えていながら、まだ序章の段階にとどまるというからおそれ入る。序章の舞台は江戸中期だから、完結する頃には、明治に至るかもしれない。「登場人物の一人、一人にぼくは深く立ち入りすぎるのかもしれない。もう少し作品の人物から身を離しておければ、楽にかけるのかもしれません。性分ですね」(白土氏)

人間嫌いどころか、人間好きの台詞(せりふ)である。手にするのは、アメリカのインディアン史。インディアン、アイヌ等、歴史の舞台から抹殺されようとする、少数民族への洞察は、歴史学者も顔まけするくらい専門的。「アイヌの頭蓋骨はおっとりしている。善人なんだな。日本人のは、それに比べて、ずっとずる賢くできている」(白土氏)

本名、岡本登(37)。父親、唐貴氏の"生き方"から少なからぬ影響を受けているようだ。唐貴氏は大正から昭和にかけて、きびしい国家権力の弾圧の中で、プロレタリア美術に挺身した画家。「日本の軍国主義教育は信用できぬ」と、自分で登少年を教えた。
1968年半ばのインタビュー交えた写真記事。撮影は三留理男による。

※記事全5枚
「毎日新聞」1969年9月19日金曜日付(毎日新聞社)
ブームを背に"隠れ里"で白土三平語る

(以下内容より一部抄出)
「唯物史観マンガなんていうけどね。そんな気はないよ。大体、マンガでメシを食うのがやっとだというのに、その評論で食う人がいるんだねえ」 実弟の岡本真さんらと、二年前に「赤目プロ」を作った。以来、"雑務"は真さんの担当。収入は再版された旧作の印税だけ。カムイ伝を連載の「ガロ」は赤字つづきだから、稿料ゼロだ。白土さんは、カムイ伝のストーリーと絵の素案を持って毎月一回、東京・練馬の事務所に現われ、アシスタントに絵の指導をしては、また漁村に帰る。あとは漁師に囲まれての生活だ。

五、六年前までは取材にも応じていた。あるとき「貸本屋の人気作家」というタイトルでグラフ週刊誌が取上げた。バイクを愛用、というので、カメラマンが「道の中央を走ってくれ」と注文をつけた。サーカスのチンパンジーよろしく、誠実に真ん中を走ったら、車にひかれそうになったという。テレビ出演を頼まれた。三時間、控室で待たされ仕事ができないと後悔した。こうしたことがマスコミぎらいの遠因になったらしい。つまり「要領よく間に合わせる」ことができないのである。だからマンガといっても、書きなぐりはできない。「カムイ伝」の資料にする歴史の本を何冊も、この二間のアバラ家に持って来ている。 それほど打込んだカムイ伝が、なんと失敗作だったと自分でいう。 「現実の状況の方が先に行っちゃったんです。アメリカを舞台にインディアンを書けばよかったと、あとで後悔したけど、もう間に合わない。一部が終わったら一、二年休んで二部、三部を考えます」 一部の徳川中期から二部では幕末、明治にもなる壮大なマンガ。白土さんが休んでいる間は、赤目プロのスタッフが春子夫人の原案になる新作を週刊誌に書いて"食いつなぐ"という。 「最近のマンガは行きづまりです。人気がある佐々木マキなども、絵画でいえばモダニズムのところ。その先が問題なんだ」 十年前、貸本屋しか相手にしなかったころのマンガ。毎月、二百点もの新作が、貸本市場にあふれた。いまのブームも、大半は、そのころの作品の再版。ドロドロしたかつてのエネルギーは消えた。表面の隆盛のかげで枯れかけている地下の源流を、必死につなぎとめようとする白土マンガ。 六〇年代の旗手でもあった白土さんが、七〇年安保のその向こうで何を作るか。 「十年たったら、また会ってください」とやや傾いた入口の柱によりかかりながら、手を振った。
1969年半ばのインタビュー交えた記事。これは「マンガ、私は当分書かない」「大作カムイ伝に失望 1、2年は2部を構想」というキャッチコピーが白土近影写真とともに入っている。 千葉の家での取材。「赤目プロ」を作ったのが「二年前」という間違いがある。これもそうだが白土の取材記事には「マスコミぎらい」ということに敵意を感じているためか悪意の感じられるものや、「マンガ描き」ということで馬鹿にした記事もまだ一部あった。 「大学生のマンガ熱 大モテの白土三平」と題された「内外タイムズ」1965年9月9日号の記事などもそういったものである。 本文中のグラフ週刊誌のバイク云々というのは「アサヒグラフ」1964年12月25日号(朝日新聞社)でのバイクに乗る白土の写真を指すのだろう。

※掲載の白土近影写真
「週刊朝日」1975年5月2日増大号(朝日新聞社)P39
プライベートニュース 白土三平

「忍者武芸帖」「カムイ伝」などの大作で知られる劇画家、神経性胃炎の療養のため、千葉・上総湊などで漁師同様の生活をして英気を養っていたが、七年ぶりにペンをとっている。短篇シリーズを、隔週刊の「ビッグコミック」に発表する。マスコミ嫌いは相変わらずで「読者との結びつきは作品を通じて……」とだけ。
週刊誌に近影写真付きで紹介されている。雑誌「ビッグコミック」1975年5月25日号掲載の「NAATA」より始まる神話伝説シリーズ連載の宣伝だろう。
テレビランド臨時増刊「まんがNo.1」(1977年1月15日発行/徳間書店)P558
まんが家小中学生時代のひみつ大公開!! 白土三平先生

仕事の合い間に、ぶらりと、映画を見にいったり、つりをしたりするのがたのしみです。
長野県にいたとき、へびをとるのが得意だった。
戦争中、父は貧しい画家だったので生活は苦しかった。

白土三平先生ミニミニメモ
 本名 : 岡本登
 生年月日 : 昭和7年2月15日
 趣味 : つり、映画鑑賞
 宝もの : なし。
 好きな食べもの : 魚ならなんでも
 くせ : 多すぎてわからない。
 将来の夢 : 今さらなし。
 卒業した小学校 : 東京都練馬区立開進小学校
 得意だった学科 : 理科
 不得意だった学科 : ありません。
 現在の身長と体重 : 167センチ、68キロ
 ガールフレンドは!? : いませんでした。
 デビューした年とデビュー作 : 昭和32年、「木枯し剣士」
 まんが家になった動機 : 小さい頃から絵が好きでしたし生活のためにはじめました。
 アイディアを考えるとき : メモをもちあるきいつでもどこでも。
 代表作 : 「忍者武芸帖」「カムイ伝」「サスケ」
1977年初頭のインタビュー記事。構成は草麻飛翁。この本に収録の白土作品は「サスケ」で、扉絵はカラーではないが「週刊少年サンデー」1968年8月4日号表紙画(これは「サスケ(リメイク版)」連載時のもの)の流用、内容はSB版だと第2巻P202-P260の部分のみが掲載されている。

※この記事のイラストは清つねおが描いている。
「週刊ポスト」1979年1月5日号(小学館)
新春異色対談山口昌男VS白土三平 混迷の現代の根源には原始人間と神話世界の構造がある

(以下内容より一部抄出)
山口 権力の残虐さを当時の漫画の世界に中心的に持ちこんだのは、白土さんが最初でしょうが、私はかつて、文部省には気の毒だけど、国民的歴史学といわれた時期にちやほやされた東大歴研の紙芝居『山城国一揆物語』などは、白土作品よりはるかに単純幼稚に見える、と書いたことがあります。
白土 あれはものすごく単純だったですよねえ。私は山城一揆は書かなかったんですが、しかし、ああいうものではけっしてありえないという意識はありました。
白土 山口さん私と同じくらいですか?
山口 昭和六年生まれです。
白土 一年先輩ですね。同じ世代なんだけど、私は親がアカだといわれてましたから、たとえばすごく仲のいい友だちでも、本当のことは話し合えない。結局、世の中から見ると、自分も親も含めて、余所者というか、そういう感じで生きてきた。戦後、それまでエリートとして生きてきた人が、価値観を全く失して自己変革をやった。流れがパッと変わったというような。私の場合はそうじゃないわけ。あとになって、そのへんの事情を整理するのに、山口さんの仕事がいい糸口になりました。結局世の中があまり合理的じゃなかったでしょう。天皇陛下を尊いと感じるというのは、理解できない不思議な世界だったんですよ。
記者 白土さんは常に当初の構想が大きく崩れてしまう人ですね。たとえば『カムイ伝』は三部まであって、いちばん書きたいのは三部めだった。ところが一部だけで六千枚も書いちゃって、いまは中断している。
白土 途中で混乱しちゃったわけ。主題はアイヌと組んで、いろんなことをやる群像がいて、一つのことを追求すると、多くのことが失われるというようなドラマを考えていた。その群像の持つ過去を描くのが一部で、二部はその人物たちの放浪と白いオオカミの物語を考えていたんですがね。
山口 神話伝説シリーズをお始めになった理由は?
白土 非常に始源的というか、人間がサルみたいなものから出てきて、家族というか、男と女がなんとなく協力してやっていく最初の糸口みたいなところを知りたかったわけです。多少勉強しましたけど、合理的に説明しようと思っても、行き止まってしまうわけですよね。それで結局神話のほうへいつの間にか行っちゃった。
山口 理詰めで権力とか家庭の発生を説明していくと、行き詰まっちゃいますね。やはり人間の運命をダイナミックに描くとしたら、そのときどきの飛躍がなければ想像力を働かせることができないわけですよね。そうすると、神話の枠組みが非常に役立ってくるということになる。
白土 そうですね。最初は気づいてなかったのですが、神話をやってから『カムイ伝』などで昔考えていた歴史じゃない、飛躍が、わりと自由に展開できる世界になりました。だけど、読んで神話をただ書くというのでない世界をつかみたいのですが……。
1978年末、山口昌男(1931年8月20日-2013年3月10日)との対談記事。この対談は「バッコス」の連載終了と重なり、内容もそれに沿ったものが中心になっている。白土の「バッコスだからバックスでやるんです(笑い)」発言などもあり、楽しめる内容。 上の内容部分は再録された単行本「マンガ批評大系」第4巻(1989年9月25日発行/平凡社)から孫引きした。 「マンガの時代 The MANGA Age 1998-99」(東京都現代美術館/広島市現代美術館)内の山口の寄稿で知ったが単行本「山口昌男・漫画論集 のらくろはわれらの同時代人」(1990年/立風書房)にも「原始人間と神話世界の構造」というタイトルで再収録されているようだ。
「少年サンデー30周年記念増刊号」(1989年4月10日発行/小学館)P152
WIDE インタビュー 白土三平

(以下内容より一部抄出)
おもしろい作品を描くまんが家を雑誌が放っておくはずがない。依頼に応じて数々の作品を発表した。確かに原稿料はよかった。だが、編集者と何回かケンカしたことがあった。 「呼びつけられるわけ。こっからオッパイが出たのがいけない、これじゃしようがねえ……"とかさ、描き直さなきゃいけない。"やだ!"って、私がいってさ……」 ページの左右の細長いスペースに書かれた縦書きの文字をハシラというが、 「私の描いたものを、編集者がハシラで宣伝してくれるわけよ。このハシラの文章が、私の意図しているものと、ズレる。ズレちゃいけないわけ」 「当時、練馬のアパートに白タク(違法タクシー)の運転手がいて、そいつと、こうきたらこう返してとか、チャンバラやってたわけ。大人でそういう相手してくれるのいないでしょ。そいつ余裕があるから遊んでたわけ」 その時、「あっ、こりゃいいや」と、腰の後ろから刃を抜く必殺"変移抜刃霞切り"を思いついた。

先生は現在、ビッグコミック賞の審査員になっているが、「なぜこの作品が残ってね、ここまできたかってわかんないのもあるわけだ。世の中変わる変わらないの問題を抜きにしてね。 今回は入賞するのはないんじゃないかと思ったら、入賞してるんだよね。すごく悪い点でも、それより悪い点のヤツばかりだと、その作品を入賞させないとしかたがないわけだな。 でも、それでは、その賞の質が低下し、権威がなくなってしまうと思うんだ」 とはいえ、やはり次代を担っていくのは若者たちである。 「以前ビッグコミックでやった『神話伝説シリーズ』では、いろんな表現のしかたを実験してみたけど、まんがの可能性は、まだまだあると思ったね。若い人たちにがんばってもらいたいね。私の仕事は『カムイ伝』の完成だよ」白土先生は力強くいい切った。
1989年初頭のインタビュー記事。10周年の時は、「われ遠方より来たる そして遠くへ行かむ」と添えた色紙を「週刊少年サンデー」読者プレゼント用に描いたのみだったが、今回はインタビュー付き。

※掲載の白土近影写真
「月刊漫画ガロ」1994年9月号(創刊30周年記念号/青林堂)P21-33
対談:白土三平×長井勝一

(内容省略)
1994年3月10日の対談記事。東北放送1994年5月放送のラジオ番組用に収録したものから抜粋、文字に起こしたもの。白土ファン必読の濃い内容である。 最後に「次号、白土三平インタビューをお楽しみに!!」という予告があり、1994年7月19日にガロ編集部が再度白土家を訪ね収録したものが載るはずだったが、 次号10月号を開くとP286に「都合により、次号11月号に延期させて頂きます。先生の執筆のご都合を考慮せずに予告先行いたしました事を、先生並びに読者諸兄に深くお詫び申上げます」の文言。 次の11月号を開くとP282に「先生がご多忙のため、今月も掲載出来ませんでした。掲載は、先生のご執筆のスケジュールなどを考慮しまして、次号以降になる予定です」の文言。 インタビュー自体は収録済みと書いてあったので許可がおりなかったのだろうか、結局以降の号にも載らずに終わっている。 以前にこのことについてガロ元編集者の白取氏のブログで聞いてみたところ、「どこかにテープがあるはず」という返事だったが、今のところそれが表に出る気配はないのが残念だ。 この対談記事は長井勝一追悼の「月刊漫画ガロ」1996年3月号にも再掲載される。

※掲載の白土・菊池豊・長井勝一写真と、白土三平インタビュー掲載予告写真
「月刊Ossa(おっさ)」1998年6?月号(株式会社ファインズ)P18-19
ふじたいらの道草くっちゃえ「道草No.51 馬糞石を探せ」

(以下内容より一部抄出)
(夢か!)この楽しい企画のきっかけを与えてくれた白土三平先生に会う事ができた。ある人の仲介によって初めて会った先生は、短髪で浅黒く日焼けをしていてワイルドな感じの人だった。さっそく馬糞石についてのお礼をのべ、なぜ先生は、房総について詳しいかを聞いてみた。「もう三十年以上前の事ですが貸本時代の出版社の友人が千葉の勝浦で病気療養していたんです。当時、そこの病院は面白くてね、見舞いに行った私まで泊まれちゃうわけ。これはいいと宿がわりにして外房、内房へよく釣りにいったりしてね(笑)そんなこんなで千葉には、ちょくちょく来てましたから」と先生。そして、馬糞石の他にも興味深い話を教えてくれた。嶺岡山系には、その地質から日本で唯一ダイヤモンドが出る可能性がある。(えっー)鋸山には、ツメの様に成長する石があるらしい。鴨川方面では、馬のひづめのような空洞をもつ馬蹄石がある事や1t位の馬糞石の話などなど、しかも、先生は話だけでなく実際に現地を見に行っているというから驚いた。この好奇心と行動力が作品に生かされているのは言うまでもない。多忙の中、時間を作っていただき感謝したい。
千葉県の情報誌に連載されていた漫画家のふじたいら(藤平浩一)さんによる写真・イラストエッセイ。白土三平のエッセイに登場する馬糞石を求めて採集に向かう。この企画で白土三平に会った時の様子もイラスト入りで紹介。
「COMIC-BOX別冊VOL.7」(2004年6月17日発行/ふゅーじょんぷろだくと)P102-105
白土三平インタビュー

(内容省略)
2004年3月16日の電話インタビュー記事。雑誌自体「特集:つげ義春と永島慎二」なので、つげ関連について聞いている内容。

※掲載の白土近影写真
「本の窓」2005年9-10月合併号(2005年8月1日発売/小学館)P28-33
対談 / あの時、あの時代 / 藤原新也VS白土三平

(内容省略)
2005年の対談記事。構成は毛利甚八。「カムイ伝全集」刊行に合わせたもの。同時にウェブ上の特集頁にも全く同じものが掲載される。

サイト閉鎖 : http://comics.shogakukan.co.jp/kamui/article_talk.html
「ビッグコミック」2005年9月10日号(2005年8月25日発売/小学館)
ふたたび白土三平の時代がやってきた

(内容省略)
2005年のインタビュー記事。構成は毛利甚八。「カムイ伝全集」刊行に合わせたもの。これは「ふたたび白土三平の時代がやってきた」と題した連載で、「ビッグコミック」7月10日号から9月25日号まで全6回掲載された。そのうち白土の発言が多く載っているのは9月10日号掲載の第5回のみなので取り出しここに含める。少し遅れてウェブ上の特集頁にもこの記事全6回がPDF形式で掲載された。

サイト閉鎖 : http://comics.shogakukan.co.jp/kamui/article.html

こういったものは本当はインタビューとも言い切れないので境が難しい。「ビッグコミック」2000年9月10日号特集頁の「『カムイ伝』の素晴らしき世界」や、同誌2006年11月10日号から計10回連載された「「カムイ伝」の原風景をいく」も毛利甚八による同じ様な構成の記事だが、「白土の発言を聞く」こととは他のところに意図のある文章であるので判断に迷う。
「ダ・ヴィンチ」2005年10月号(2005年9月6日発売/メディアファクトリー)P196-199
COMIC DA VINCI 『カムイ伝全集』ついに刊行始まる

(以下内容より一部抄出)
― 「カムイ伝」は東京オリンピックが開催された1964年に連載が始まり、第二部が終わった2000年の時点で38巻の大長編になりました。40年が過ぎて、まだ終わらない。
「はじめから第三部まで描くという構想でね。最終回はイメージは決まっていたけど、失敗しながらやっているうちに、こういうことになったんだね」

― 「カムイ伝」のために「サスケ」の印税を投じる形で『ガロ』が創刊されるわけですが、当時、白土さんは大手の出版社の連載もあった。わざわざ『ガロ』を創刊したのは?
「忍者武芸帳(1959〜)から意識的に作品を作り始めるわけだけど、大手の出版社では連載の途中で意見が対立して終わってしまうことが多かった。残酷だとか、子どもの教育上良くないとかね。自由に描く媒体が欲しかった。編集長の長井勝一さんというのは不思議な包容力のある人でね。あの人がいなかったら、『ガロ』からいろいろな漫画家が育つということはなかっただろうね」

― 連載当初は小島剛夕さんがペン入れをされていました。
「その頃は他の連載もあって忙しかったから、自分でペン入れをする余裕がなかったんだ。練馬から保谷にあった小島さんの仕事場まで、できあがった下絵を私がバイクで届けてペンを入れてもらった。小島さんは日本髪や和服を見事に描くことができる人でしたね。そのうち小島さんが一本立ちして、弟(白土氏の弟・岡本鉄二氏)が描くようになったんです」
2005年のインタビュー記事。毛利甚八による取材。「カムイ伝全集」刊行に合わせたもの。応援コメントとして夢枕獏「マンガ界の大山脈」と、荒木飛呂彦「「カムイ伝」賛歌」も掲載されている。

※掲載の白土近影写真
「ビッグコミック」2006年5月25日号-2006年6月25日号(2006年5月10日-2006年6月10日発売/小学館)
夢枕獏、白土三平と「カムイ伝」を語る

(内容省略)
2006年の対談記事。これは全3回の連載。少し遅れてウェブ上の「カムイ伝全集」特集頁にこの記事全3回が画像で掲載された。

サイト閉鎖 : http://comics.shogakukan.co.jp/kamui/article.html
「ビッグコミック」2009年9月25日号(2009年9月10日発売/小学館)
カムイに逢う日 白土三平+崔洋一+松山ケンイチ

(内容省略)
2009年の鼎談記事。映画「カムイ外伝」の公開に合わせたもの。内容は2009年8月28日に発売された単行本「カムイ外伝-スガルの島-」に収録のものと同じで、単行本のもののほうが少しだけ長めに収録されている。 この内容抄出のコミックナタリー記事(http://natalie.mu/comic/news/21038)にも鼎談時の近影写真が載る。
「文藝春秋」2009年10月号(2009年9月10日発売/文藝春秋社)P360-369
「カムイ伝」が教えてくれたこと 白土三平×崔洋一×田中優子

(内容省略)
2009年の鼎談記事。映画「カムイ外伝」の公開に合わせたもの。
「毎日新聞」2012年1月13日付地方版(毎日新聞社)
(内容省略)
岡本唐貴の肖像画について家族(白土)に確認した記事。岡山県倉敷市立美術館の企画展「岡本唐貴 人・ヒト・ひと」開催にあわせたもの。

サイト閉鎖 : http://mainichi.jp/area/okayama/news/20120113ddlk33040499000c.html
「毎日新聞」2013年11月17日付(毎日新聞社)
余録

少年忍者を主人公にした漫画「ワタリ」に「死の掟(おきて)」という話が出てくる。下層の忍者たちは掟を破ると支配者から殺されてしまう。ところがその掟の中身とは何なのか、支配者以外は誰も知らないのだ▲「その掟を知らねば掟の守りようがないではござりませぬか」。忍者たちは見えない掟に恐れおののき、疑心暗鬼になり、支配者に服従するしかない。実は掟とは支配者が衆人を都合よく統制するために編み出した秘密のことで、その秘密を知った者は消されていくのだ▲ならば現代の「死の掟」となりはしないのか。国会で審議が進む特定秘密保護法案のことである。情報を行政機関だけの判断で特定秘密に指定し、その秘密の中身が何かを国民は一切知ることができない。秘密を知ろうと近づけば、場合によっては逮捕され、処罰される▲作者は「カムイ伝」「サスケ」などで知られる漫画家の白土三平(しらと・さんぺい)さん(81)。プロレタリア画家だった父や軍国主義教育を受けた自身の体験を踏まえ、権力支配の有りように鋭い批判の目を向けた作品が多い。彼の目に法案はどう映るのか▲「(特定秘密という)わからないもののために罰せられるというのは理不尽。背景にはこの法案を作り上げた精神や雰囲気のようなものがあるはずで、それが広がっていくようであれば大きな問題です」。白土さんはそう懸念する▲「ワタリ」では、忍者たちが最後に団結して支配者を捕らえ、掟の呪縛(じゅばく)から解き放たれる。「理不尽なことを押しつけてくるものに対して、我々国民の側は正当に防衛する権利を行使できるはずです」。白土さんは世論の高まりに期待する。
特定秘密保護法案は「ワタリ」の死の掟に似てる、といった内容のコラム(Twitterでの広まりの後追い記事)。白土の発言がインタビュアーの聞き書きという形で載る。 特定秘密保護法自体は2013年12月13日に公布され、翌年12月10日に施行された。
サイト閉鎖 : http://mainichi.jp/opinion/news/20131117k0000m070117000c.html
「アックス」VOL109・2016年2月25日号(青林工藝舎)
自由な発想を発表させる場として『ガロ』はあった

(内容省略)
インタビュー記事。特集は追悼・水木しげる。
http://www.seirinkogeisha.com/ax/422-5.html
「毎日新聞」2018年2月2日金曜日付東京夕刊(毎日新聞社)
漫画家・白土三平さん 心は「飛んでるぜえ」 「カムイ」から自由に

(内容省略)
インタビュー記事。
https://mainichi.jp/articles/20180202/dde/012/070/012000c
※白土三平名義単行本に収録のものは除いている。
※全て原文のままであり、誤字・脱字などもそのままにしている。
※一部ルビは小カッコ ( ) 内に書き入れた。