岡本唐貴

※「岡本唐貴画集」 (1963年11月5日発行/岡本唐貴画集刊行会/2300円) : 唐貴初画集
Profile
洋画家 : 岡本 唐貴 (おかもと とうき)
本名 : 岡本 登喜男 (おかもと ときお)
生没年 : 1903年(明治36年)12月3日 - 1986年(昭和61年)3月28日(満82歳没/享年84)

プロレタリア画家。生涯芸術活動に身を染め、ダダイズム、シュルレアリスムなどの影響を受けた絵画、写生画を数多く残す。子は登・鐵二・眞・颯子の4人。
年表
1903年(明治36年) : 岡山県浅口郡連島町(現在の倉敷市)に三男として生まれる。
1918年(大正7年) : 米騒動、労働争議を目撃、思想的に大きな影響を受ける。
1919年(大正8年) : 父・弥平次死去。農業の傍ら油絵の勉強を始める。
1920年(大正9年) : 神戸市で浅野孟府と出会い、2人で東京に出、原宿にて共同生活を始める。
1921年(大正10年) : 浅野と彫刻家・戸田海笛のアトリエに住み、油絵のかたわら彫刻を学ぶ。
1922年(大正11年) : 東京美術学校(現・芸大)彫刻選科に入学。翌年退学。
1923年(大正12年) : 関東大震災のため、神戸市に移る。二科会内急進グループのアクション(1922-1924)に参加。

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1924年(大正13年)
・10月3日、二科会への批判からアクション解散。神原泰、矢部友衛、村山知義らと15人で三科造形美術協会(三科会)(1924-1925)を結成。

1925年(大正14年)
・5月20-24日、東京銀座の松坂屋にて三科会員展。
・9月、東京上野山上の自治会館にて第1回三科展。会期中に三科会解散。
・11月、10人で造型を結成(浅野孟府、飛鳥哲雄、神原泰、岡本唐貴、作野金之助、牧島貞一、矢部友衛、吉田謙吉、吉邨二郎、吉原義彦)。

1926年(大正15年・12月25日から昭和元年)
・3月23-29日、東京銀座の松屋にて第1回造型作品展。
・8月23-29日、東京日本橋の三越にて第2回造型作品展(9月に宮城、翌年1月に大阪で移動展)。

1927年(昭和2年)
・6月3-12日、東京上野の日本美術協会場にて第3回造型作品展。
・8月1日からの一週間、新潟の「造型夏季絵画講習会」に参加、個展。

1928年(昭和3年)
・造型を造型美術家協会として再組織。
・5月29日-6月2日、東京の丸ビルにて第1回造型美術家協会作品展(第4回造型作品展を改題)。
・7月、造型美術家協会は丸の内仲通りに研究所を作る。
・11月27-12月7日、「第1回プロレタリア美術大展覧会」。

1929年(昭和4年)
・1月、前年発足された全日本無産者芸術連盟(ナップ)改組による日本プロレタリア美術家同盟(ヤップ)(1929-1934)の結成に参加。
・2月、造型美術家協会は丸の内仲通りの研究所を現在の練馬区東長崎に新築移転。
・12月1-15日、「第2回プロレタリア美術大展覧会」。

1930年(昭和5年)
・2月、塩谷太郎(本名/相馬一正/1903-1996)の妹・君子(本名/相馬きみ)と結婚。
・6月、造型美術家協会は東長崎の研究所を「プロレタリア美術学校」に改称。

1931年(昭和6年)
・11月、所属のナップにさらに団体が追加され、日本プロレタリア文化連盟(コップ)が成立。
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1932年(昭和7年) : 2月、長男・登(白土三平)が生まれる。夏、特高に検挙・投獄される(日本プロレタリア美術家同盟員の逮捕)。一家で神戸市に移る。
1933年(昭和8年) : 東京目黒に移った直後の2月、同志小林多喜二の死顔を描く。大阪にて、浅野孟府と共同展開く。札幌に行く。
1934年(昭和9年) : プロレタリア美術運動解散。受けた拷問からの発病(以降5年間の闘病生活)。

1937年(昭和12年) : 大坂にて個展。
1938年(昭和13年) : 新潟にて個展。東京練馬に画室を立てる。
1940年(昭和15年) : 満州・北京に行く。大連、奉天にて個展。
1942年(昭和17年) : 新潟にて個展。
1944年(昭和19年) : 夏、一家で長野県に疎開。冬、住まいを移す(同じ長野県内)。
1945年(昭和20年) : 2月、長女・颯子が生まれる。8月、この地で終戦。
1946年(昭和21年) : 矢部友衛、山上嘉吉、寺島貞志、市村三男三らと現実会(1946-1948)の結成に参加。日本美術会の結成に参加。
1948年(昭和23年) : 現実会解散。共産党入党(1958年離党)。
1950年(昭和25年) : ソヴェート美術研究会を結成。
1953年(昭和28年) : 大坂にて個展。
1955年(昭和30年) : 寺島貞志、村雲大撲子、石垣栄太郎、別府貫一郎、後藤禎二、山上嘉吉と点々会を創立。
1956年(昭和31年) : 東京にて個展。
1961年(昭和36年) : 東京にて個展。
1962年(昭和37年) : 訪ソ。
1963年(昭和38年) : 1月、母・留與死去(82歳)。
1967年(昭和42年) : 創作画人協会の結成に参加。
1981年(昭和56年) : 5月6日、妻・きみ死去(満72歳)。
1983年(昭和58年) : 自伝刊行。
1986年(昭和61年) : 死去。
刊行物
1926年 : 雑誌「アトリエ」に論文「造型とその意義について」を発表。
1928年 : 機関紙「造型」刊行。
1929年 : 「第2回プロレタリア美術大展覧会」ポスターを描く。
1930年 : 「プロレタリア美術とは何か」(論文集/1930年9月発行/アトリエ社)刊行。
1930年 : 雑誌「戦旗」に挿絵。 「文学革命の前哨」(小宮山明敏著/9月発行/世界社)の装幀。
1930年 : 雑誌「東京パック」(東京パック社/10月号)の表紙。
1931年 : 1930年版「日本プロレタリア美術集」(刊行直後発禁)刊行に協力。
1931年 : 「新しい美術とリアリズムの問題」(国際書院/即日発禁)刊行。
1946年 : 「民主主義美術と綜合リアリズム」(矢部友衛との共著)刊行。
1949年 : 機関誌「BBBB」に論文「ソヴェート美術の近状」を発表(以降連載)。
1963年 : 「岡本唐貴画集」刊行。
1967年 : 「日本プロレタリア美術史」(松山文雄との共著/造形社)刊行。
1983年 : 「岡本唐貴自伝的回想画集 岡本唐貴自選画集」(東峰書房)刊行。


※1929年12月、第2回プロレタリア美術展覧会にて(前列中央に唐貴、左端にはまだ十代の黒澤明の姿) : 単行本「グッドモーニング、ゴジラ」樋口尚文(1992年9月10日初版発行/筑摩書房)より
その他
※戸田海笛(1888年-1931年)は鳥取県米子市出身の天才彫刻家。43歳の時パリにて客死している。
※雑誌「構造」第6号(1986年7月発行)に追悼特集
※展覧会誌「岡本唐貴とその時代 1920-1945 尖端に立つ男」倉敷市立美術館編(2001年3月発行)
※東京都現代美術館美術図書室 : 「岡本文庫」、これは唐貴の旧蔵書。図書、カタログ、雑誌等。
※市立小樽文学館 : 小林多喜二遺族からの寄託された小林多喜二死顔絵の展示。
※近代美術資料館(埼玉県さいたま市) : 1985年に唐貴本人から託された三科・造型などに関する資料がある。 → 外部リンク
※練馬区立美術館にも作品の所蔵がある。 → 外部リンク
※唐貴はアニメ「アタックNO.1」「ドラゴンボール」「ONE PIECE」の作画監督で有名なアニメーター竹内留吉にも絵を教えていた。
その他
1932年2月に長男(白土三平)が生まれ、その直後の日本プロレタリア文化連盟大弾圧。以下の文章は唐貴がその年の夏を回想したもの。

こういう情況の中で私も自宅から検挙され、真夏の長いブタ箱生活をさせられ、相当衰弱しているところを特高のテロ係にとうとうのされて了った。気を失ってどれ位たったかわからないが、すーと気付いてくる夢の中で水の音を聞いた様な気がした、とたんグロツスの「アッカー街の艶殺事件」という絵が現われ、女を殺して手を洗っている男を見たとたん目が覚めた。ふと見るとさっきの特高のテロリストが洗面器で手を洗いながらこちらを見たとたん眼が合った。水の音は特高の手洗いの音だったのだ。
両足のももがはれ上って動けなかった。やっとブタ箱につれてゆかれた。それでも一週間ほどではれは小さくなった。面会だというので特高室に行くと家内が来ていて大きなテーブルをはさんで私の真正面の椅子にかけていた。生後半歳ほどの長男をおんぶしていた。差し入れだというトマトをかじったとたん長男登が私を見てウ・ウーと奇声をあげて、母の背中であばれだした。その声を聞きその姿を見たとたん、眼から熱いものが、喰べかけのトマトの上にぽたぽたと落ちた。実にくやしかった。なさけなかった。しばらくして私はとうとう手記を書かされた。それからも一回まわされて最後に警視庁のブタ箱に四日とめられて、終に釈放された。私は不起訴になったわけだ。党員でないのでついに起訴に出来なかったわけだ。私は当時共産党に入る気持になれなかった。直接政治的な統制を受けるのは絵かきにとって困るからだ、こういうのを当時は右翼日和見主義といっていたが、私は政治と芸術とは別であると思っていた。
帰宅してみると家はさんたんたるもので、ガスが止められ炊事は出来ないので妻はわずかな小遣を工面して外出してウドンを喰べている仕末、家賃はたまったので追立をくっていた。さて生活をどう建て直すか大ごとだった。


この翌年の2月20日、唐貴と同年生まれで同志だった小林多喜二が特高に逮捕される。多喜二は共産党の活動要員だったためにひどい拷問を受け、両足ももの腫れなどが原因でその日の内に亡くなっている。唐貴は翌日の夜、その死顔を油絵で描き写した。唐貴も受けた拷問により後に発病し、自由には動けない体となっている。当時このように多数の芸術家が拷問による発病で命を落とした。唐貴も戦後共産党に入党するが、芸術の政治との癒着が嫌になり約10年で離党している。「特高」は特別高等警察の略であり、大戦以前の思想取締り専門警察。昔の日本は今の北朝鮮とさほど変わらない徹底された国家だった。「蟹工船」で有名な多喜二の最期についてはプロレタリア文学芸術研究連盟サイトに詳しい。


※「Sex Murder in Acker Street(1916年)」George Grosz : 単行本「グロッス社会諷刺漫画」(世界の泉7/村山知義解説/1969年9月30日発行/岩崎美術社)より
※「水の音(1982年)」岡本唐貴 : 小冊子「岡本唐貴自選展および画集に対する批評」(1984年2月20日発行/東峰書房)より(元絵はカラー)
※1933年2月、多喜二を囲む仲間たち(右上に多喜二と同じ当時29歳の唐貴の姿がある) : 単行本「小林多喜二」手塚英孝(1958年2月15日初版発行/筑摩書房)より
その他

※小冊子「岡本唐貴自選展および画集に対する批評」岡本唐貴編(1984年2月20日発行/東峰書房/全26頁)

この小冊子は1983年7月5日から15日まで、東京渋谷区鉢山町のギャラリージェイコにおいて開かれた岡本唐貴自選展および同時に刊行された「岡本唐貴自選画集」ならびに「自伝的回想画集」に対する新聞と雑誌に掲載された批評文を編輯再録したものです。
新聞は東京・大阪の両読売新聞、毎日グラフ、東京新聞。雑誌は「美術手帖」「美育文化」です。
私の古くからの友人や展覧会を御覧になった方々、又画集を御覧になった方々も、それらの批評文をまとめて読まれた方々は少ないと思いますので、ここでとりあえずこの小冊子にまとめてお手許へお送りする次第です。御一読下されば幸いです。


上の唐貴による前書き文に続き、以下の評論とモノクロ図版数点、岡本唐貴略歴が収められている。
 ・破壊と復元のあいだ -メモ・岡本唐貴- (平井亮一/「美術手帖」1983年9月号)
 ・ギャラリージェイコでの岡本唐貴展 (NID/「美育文化」1983年9月号)
 ・"自伝的回想"シリーズ仕上げ 岡本唐貴 新作・自選の個展 (「読売新聞」1983年7月8日号夕刊)
 ・「自伝的回想画集」・「自選画集」 (「東京新聞」1983年8月5日号)
 ・プロレタリア美術の支柱・岡本唐貴自選展 (田中宦^「毎日グラフ」1983年8月7日号)
 ・私の会った美術家たち82 自伝絵画貫く反骨精神 (埼玉県立近代美術館館長 本間正義/「読売新聞」1983年10月26日号夕刊)
主な資料
※「現代の眼」東京国立近代美術館ニュース
※「岡本唐貴自傳的回想画集 岡本唐貴自選画集」岡本唐貴(1983年発行/東峰書房)