ダイヤモンドコミックス まえがき
真田剣流 第1巻(初版1966年5月15日) P4-P5
「真田剣流」の世界  白土三平

 天下を二分した関ケ原の戦いは、大阪方の大敗に終った。だが勝者徳川軍といえども、もって天下に号令を発し、たくみに政権を掌握するまでには至らなかった。各地に点在する豊臣方残党の勢力にはまだまだ根強いものがあった。
 この両者の間でくりひろげられる虚々実々の暗闘のさなか、平和な野性生活をおくる一人の少女が、ふとしたはずみにこの渦にまきこまれることからこの物語ははじまる。
 「真田剣流」は私が前に書いた「忍者旋風」のうち「風魔忍風伝」(風のフジ丸の原作)の続編になっている。「風魔忍風伝」における風魔一族はこの物語と反対の性格であらわされていたが、そのなかで"竜煙の書"争奪合戦にかつやくした小太郎が風魔の首領としてよそおいも新たに登場する。
 真田剣流とは一体いかなるものか?……そしてその陰にひそめられた謎――それをめぐって起こる死闘の渦にまきこまれ次々に登場する有名無名の忍者、剣客、大名、商人。全編を通じ真田剣流をみきわめようとする野性の少女。おなじみ真田幸村をはじめ、猿飛、霧隠、穴山小助らの真田忍群、ならびに後年剣聖とまで仰(あお)がれた宮本武蔵をはじめ、武蔵を凌(しの)ぐといわれた二階堂流松山主水、さらにおそるべき陰流の柳生一族、地位奪還を謀る二代目服部半蔵……これらのいりみだれるなか、小太郎はじめ風魔一族はいかなるかつやくをするか、はたまた真田剣流はどのようにして解明されてゆくか……。
 これらの登場人物がうまくからみ合い、面白く展開されてゆくかどうか?………
 楽しく読んで戴ければ幸いです。
以降単行本への再録は以下。上から刊行順。
・CC版第1巻(1968年)巻頭に収録
・白土三平選集「真田剣流」(1970年)には収録されず
・HC版第1巻(1975年)巻頭に収録
・旧SB版第2巻(1978年)巻末に収録(「一九六四年一一月」という日付入り)
・SS版第2巻(1996年)巻末に収録(「一九六四年十一月」という日付入り)
・SB版第2巻(1999年)巻末に収録(「一九六四年十一月」という日付入り)
・コンビニ本(2007年)には収録されず
・新装版白土三平選集「真田剣流」第2巻(2009年)巻頭に収録(「一九六四年十一月」という日付入り)
真田剣流 第2巻(初版1966年6月15日) P4-P5
"丑の刻まいり"と"丑三"  白土三平

 日本の伝説伝奇のなかには、我々の想像力を喚起するものが無尽蔵にある。
 焼いた鮒を水に放つとたちまち生き返ったり、高僧の杖(つえ)で地面をひと突きすると旱ばつに悩む村落に清水が湧いたり。無気味なところでは、毎年決った日、夜になると首なしの大名行列が通ったり、その行列を見た者がその年のうちに必ず死んでしまったり……全く興味ある話は枚挙にいとまがない。
 「真田剣流」に於ける"丑三の術"もそうした古い伝説のひとつ"丑の刻まいり"から考え出されたものであることは言うまでもない。
 丑の刻うんぬんはともかく、そういった数々の不可思議な話――それがもし事実だとしたらどうだろう……。いろんな面白い事件や現象があらわれるかも知れない。
 日本各地に見られる"巨人伝説"や"かくれ蓑(みの)の話なども面白いと思う。現在、人間の力ではどうしようもないと思われることが一気にかたづいたり念願の夢が手もなくかなえられたり――夢は無限に拡がって良いと思う。
 太古には人間が空を飛んだり、水の底をくぐり抜けたりすることは思いも寄らなかったに違いない。しかし人間は不可能なことを不可能として何もせず手をこまねいた訳ではない。
 「まず可能なことから」手がけてゆこうという人間の夢を追求する姿――航空機発達の歴史ひとつをみても充分それを感じることは出来る。人の腕に鳥の羽根もどきを付けて崖から飛び降りた勇敢?な男もいたし、たちのぼる煙に眼をつけた若者もいた。それらは今からみれば馬鹿げているが、それは現在我々人間が飛行機というものを持っているからそう感じるのである。
 一見無駄に見える地道な努力――それの積み重ねがあってはじめて、大それた夢の実現もまた可能になる。
 (一九六六年五月)
以降単行本への再録は無し。
真田剣流 第3巻(初版1966年6月30日) P4-P5
"生きぬく技術"としての忍法  白土 三平

 「真田剣流}はこの巻で終了する。話は恐るべき完全殺人法"丑三の術"を中心にくり広げられてきた。従って丑三の術もこの三巻めで全て明らかとなる。
 もともとこのお話しは読者諸兄に大いに楽しんでもらおうと思って書いたものだから、忍者達の活躍と彼等の使う術の奇抜さ、意外さを満喫して戴ければそれでよいわけである。
 ただ、彼等の生みだす秘術なるものはこの丑三の術のようなものだけではなく、各種各様の生彩に富んだものであったと思われる。ある者は己の身を護るためにのみ編みだした者もあるだろうし、あるいはこの暗夜軒のように攻撃型の忍者も数多くいたかも知れない。
 それらに一様にいえることは次のようなことである。
 つまり彼等が自身の秘術を生みだす契機といったようなものには、ある共通的なものが見うけられるのである。――つねに陰の存在であった忍者、彼等にとって忍法とは(その方法が極めて個人的ではあるが)、己の命運をきり拓き、自己の誇りと自由を獲得する最上の手段だったようである。
 そして、誰にも気付かれず、破られないという彼等の編みだした秘術なるものは、苛酷な鍛練の過程において自己の熱情がいかに熾烈であったかを如実に物語るものである。
 なぜならば、最も苦しむ者が最も正しく、最も力強く、もっとも独創的だからである。それは世の最底辺に生きる者達が、あるいは最も矛盾にみちた時代の最前線を突きすすむ者達がもつ哀切で、悲痛な"〈生き抜く技術"といったものと、どこか一脈通じるものがあるのではないか……。

 なお「剣流」の続編は「風魔」である。「剣流」で忍者集団の組合機関としての性格を読者に望見させた風魔一族がどのような活躍をみせるか。――またの機会に……。
 (一九六六年六月)
以降単行本への再録は無し。
忍者旋風 第1巻(初版1967年1月10日) P4-P5
はじめに  白土三平

 四月頃の新聞にティーチングマシンに関する記事が載っていた。一般にはあまり知られていないが、一部ではかなり前から研究が進められていたようである。
 言葉通りに解すれば、現場の教師の肩代りを機械にやらせようというふうにとれる。新聞にはその大まかな現状の紹介がしてあったが、まだ実験段階で何ともいえぬという。
 語学教育その他に電子計算機などを応用した授業を一部の学校では実験的に行ない、データの収集に余念がないそうである。
 ――善用されれば多大の効果も期待されるが、やはり心配である。
 原水爆の問題がある。核エネルギーの力も平和的に用いられれば、これ程人間の福祉と進歩に役だつものはざらに見あたらない。
 ――やはり手にするものの思わくひとつでどうにでもなるようでは安心していられない。
 これ等の問題はつまるところ、管理能力の問題である。人間自体の能力もさることながら、それを決定づける社会共同体の能力が問題となるのである。大多数の犠牲と忍苦の上に成り立つ秩序にそれを期待することはできない。個々の創意と意志がその中に組み込まれるような公正な社会体であって初めてそれは可能になる――それをだれ何のために持つか?発想は極めて単純直截で結構なのである。
 本書「風魔忍風伝」の当初にも、至極無邪気であったとはいえ、そういった想念がはたらいていなかったとはいえない。
 ところでこの「忍風伝」は、先にNETテレビで放映された東映動画部製作になる「風のフジ丸」の原作だが、「フジ丸」が「忍風伝」のキャラクターとストーリィを踏まえて出発したにも拘わらず、後半、随分と原作とは違ったものになっていった。このことは原作とは全く関係のないことだし、したがって責任ももてない。刊行にあたってひとこと附言して置く。本来この忍者旋風「風魔忍風伝」は、「真田剣流」の前篇にあたる作品であるが、原稿その他の煩雑な事情により、出版があとさきになってしまって残念である。
 なお、かなりな部分の原稿が紛失していたので岡本颯子氏に依頼しトレスして戴いた。氏の献身的な協力により初めて上梓の運びとなった次第。改めてここに謝意を表します。

 昭和四十一年十一月
CC版(1967年)に再録されたが、KDC版のみにかかわる一文「本来この忍者旋風〜」は削除されている。それ以降単行本への再録は無し。
トレスとは、上からなぞることをいう。この場合は原稿が紛失し、本としてすでに発行されているものは貸本のため紙質が悪く、そのままそれをコピーし載せると汚くなるので白土の実妹である岡本颯子が上からなぞったものをこの本に収録したということ。
忍者旋風 第2巻(初版1967年2月15日) P4-P5
はじめに  白土三平

 猿の生態を見ているといろいろと面白い。死んだ自分の子供をいつまでも抱き続けて膝から離さない母猿がいる。この母猿の愛情行為は、猿の限界をはるかに超えたものだとある学者はいっている。
 また猿の集団には必ずといっていいほど、孤猿と呼ばれるロンサムボーイがいる。一匹だけ群から離れて生活するアウトサイダーである。これは現段階では、一匹だけ群から離れざるを得なかったような原因(たとえば蚤(のみ)、虱(しらみ)、皮膚病の類)があるのか、それとも拗(す)ね者で性来反抗心の強いものだろうといわれている。極めて人間的な解釈というほかはない。その辺の真相は人間の合理性をもってしては律しきれない猿世界自体の原因があるのかも知れない。
 自然界は愛情や正義よりも力の支配する世界である。つねに弱者は強者にとって代られる。死は次なる世代の生のために存在する――ディズニィ映画ではそう説明しているようだ。自然界と人間界では自ずとその条件が違ってくるが、やはりそうして取って代られた弱者の死というものは全くの無意味ということはないはずである。力による支配という原則を誇示してさらには正当化してしまう気は全くないが、弱者は常に強くなりたいと願い努力しているのである。
 ボス猿がいて思うように食物が手に入らないヤングゼネレイションは泣く泣く水に浮かぶ餌を取ろうとする。何度か失敗し水に落ち込んでいるうちにその猿は泳ぐ力を持った。エゾオオカミが絶滅したのは、やはり他の動物を襲撃して食物を得るという生活方法を変えなかったための失敗である。反対にオオカミの餌となっていた弱いはずのシカが残った。
 力も正義もつねに変化するもので恒久的なものではないのである。
 人間も極端に追い込まれた動物的状況の中では必要が全てを支配するはずである。そこに独創が生まれ可能性が湧出してくる――それが忍法の世界とは考えられないだろうか。
以降単行本への再録は無し。
忍者旋風 第3巻(初版1967年3月15日) P4-P5
はじめに  白土三平

 動物の世界にはまだまだ首を傾(かし)げることはたくさんある。スカンクが餌として卵を食べる時のその方法のなんと間の抜けたことか。手で殻を破(わ)ろうとするのだが、遠くへ転がってしまってうまく破(わ)れない。しかも彼らは近眼だからそれを捜しだすのに死ぬほど苦労しているのである。我々人間から見れば、近眼には近眼なりの方法があろうというもの。それともそこにはもっと外のぬきさしならぬ原因があるとでもいうのであろうか。
 スカンクのガスが自分には効かないというのも不思議な話である。これが人間の世界の話となると厄介なことになっている。
 アメリカあたりでは頻り(しきり)に相手がやるからと尤もらしいことを並べたててはいるが、それらの核兵器が自分達には無効だとでも思っているのだろうか。残念なことに相手の方にもそれくらいの核兵器の装備はできているのである。まだ使用してないだけの話である(最近北ヴェトナムから数発のミサイルが発射されたと聞くが、これは米国側の発表であるから念のため)。
 あろうことか、ヴェトナムでは北からの侵略をくい止めるという苦しいいいわけのもとに公然と毒ガス銃の使用が行なわれている。これまた残念なことにヴェトナムはアメリカに対し方角的には東の方に位置している。それとも当たりかまわず毒ガスを振り回した結果、スカンクのように近眼になってしまって方向感覚を全く失ってしまったのだろうか。こういう方達には何としても危険千万な核兵器の管理などをお任せするわけにはゆかない。
 実力をともなわない平和主義は全くの絵に描いた餅だが、その実力を使うか使わないかはまた別の問題である。こともあろうに出張して実力行使をやりたがるような段にいたっては、何とかに刃物の譬えもある通り、ご本人のためにも極めてよろしくない。
 持っていても妄り(みだり)にチラつかせたり、振り回したりするなど誠にもって奥ゆかしくないことで、使うにはちゃんと使う方法はある。無くてはならぬ鉛筆一本だって充分兇器になり得る。それをふりまわして脅し回るような子供には例えどんな理由があるにしろ、渡してあげるのをいささか考えてみなければならない。

 昭和四十一年十二月
以降単行本への再録は無し。
忍者旋風 第4巻(初版1967年5月10日) P4-P5
はじめに  白土三平

 ティーチングマシンとカウンセリングにより、けっして自分でものを考えたりしない、右向けと言えば右向き、銃を執れといえば銃を執る、誠に期待すべき人間を造ることも不可能ではない。
 旧日本軍に細菌部隊というのがあったと聞く。ある地域を侵略する場合、そこへ細菌部隊が病原菌をばらまき疫病を蔓延(まんえん)させる。その後に医療部隊が乗り込み現地民の施療に当たるという。
 現在、南北に朝鮮は分断され、その統一を悲願する人は多い。一方韓国は政情が不安で、窮乏する人々は後を絶たない。そこへカトリックが教会を建て貧民に粥(かゆ)を施す。かくして空腹による眩暈(めまい)のため、かつては南北統一を志した人々さえも、38度線近くの山中に座し、お祈りを捧げることによりそれを為し遂げようとするまでに愚人化されてしまう。
 いつの世も支配者のやり口はたいして変わりばえがしない。
 核エネルギーも、ティーチングマシンも、施療も、貧民に粥を施すことも、それ自体はけっして悪でもなんでもない。悪はそれを手にする人間の側にある。人間がそれをきちんと管理する能力を失なったとき、人類は破滅に向かってまっしぐらに突き進んでいるのである。
 そして、日本に原爆が投下されたのは、オッペンハイマー博士個人の所為でもなければ、幾人かのパイロットのためでもない。
 "あやまちは二度とくり返すまい"という。だが、あやまちであろうか?過失というのは、為(な)そうとして為した結果ではなく、偶然によってもたらされたものである。――落とすつもりのない爆弾を抱えて、敵国の上空を飛び回る馬鹿者がどこの世界にいるというのだろうか……。
 さてこの巻で忍者旋風「風魔忍風伝」は終わるわけであるが、この続篇として「真田剣流」そして「風魔」と続いている。それではまたの機会に……。

 昭和四十二年一月
以降単行本への再録は無し。
※全て原文のままであり、誤字・脱字などもそのままにしている。