白土三平について
Profile
白土 三平 (しらと さんぺい)
生没年 : 1932年(昭和7年)2月15日 - 2021年(令和3年)10月8日(満89歳没/享年90)
代表作品 : 「カムイ伝」「カムイ外伝」「忍者武芸帳」「サスケ」「赤目」
漫画作品数 : 約150
経歴 - 出生から漫画家デビューまで
白土三平(本名・岡本登)は、1932年2月東京府豊多摩郡杉並町馬橋(この約半年後に東京府東京市杉並区となる)に生まれる。血液型はA型。 父親の岡本唐貴は映画監督になる前の若き黒澤明にも絵を教えていた高名な洋画家であった。 細い路地をはさんだ向かいには小林多喜二一家(彼と母と弟)が住んでいた。 唐貴と多喜二は同い年で、家族ぐるみで交流する友人同士だった。国の理不尽な暴力に対して唐貴は美術で、多喜二は文学で対抗していた。 生後すぐの5月に父・唐貴が思想統制で投獄され、夏までの三ヶ月間、ひどい拷問を受ける。当時は服従しない人間たちを暴力で頷かせるのが国の方針だった。釈放直後に一家は神戸の父の実家に移る。 1933年に再度上京、東京目黒に暮らしていたところ、2月に多喜二が拷問によって殺される。東大や慶応病院は解剖を拒否。以降唐貴は生活費が無く住まいを転々とする。 1933年9月に杉並区上荻窪町(西荻窪)で弟の鉄二(本名・鐵二)が生まれる。 1934年、東京練馬のアトリエ村で暮らし始めるが、父が再度特高に捕まりそうになり一家で神戸の実家に移る。 まもなくして兵庫県西宮に一家で移り住むが、父のうけた拷問が発病し、医者のいる大阪城東区に引っ越す。 そして静養のため、空気のよい郊外の大阪府豊能郡小曽根村(現・大阪府豊中市)に移る。1936年3月にここで弟の眞が生まれる。

1938年春、大阪から東京に戻り、父が板橋区練馬南町(現・練馬区桜台)に画室を立てる。 1944年3月、東京市開進第二国民学校(現・練馬区桜台開進第二小学校)を卒業し、私立練真中学校(旧制・現在廃校)に入学する。 その夏、戦争が激しくなったため長野県小県郡中塩田村(現・上田市八木沢)に一家で疎開する。 東京での翼賛会の嫌がらせもあり、唐貴が戦争の情況をみて「もって一年半だろう」と考えたためであった。 疎開先で一家は「疎開1号」とよばれる。白土と鉄二は旧制上田中学校(現・上田高校)に転入する。 弟の眞が小学校の教諭から疎開者ということで差別を受ける。家主からの風当たりも強く、冬に山奥の長村横尾(現・上田市真田)に転居する。 1945年2月、ここで妹の颯子が生まれる。8月に終戦、白土と鉄二の2人を残し一家は先に東京に戻る。翌年2月、2人も東京に戻る。

1946年(14歳)、練真中学校を3年で中退する。以降、英語学校に通うも、映画館に入り浸る日々を続ける。1947年8月に板橋区の一部分離で練馬区が発足する。1950年5月まで中野駅前の入歯工場で仕上工として勤める。 その後、父の絵描き仲間である金野新一(矢部友衛の弟子)のアトリエで、金野の友人の山川惣治による街頭紙芝居を量産するため、彩色・模写の仕事手伝いを始める。 仕事場では山川のかけるレコードを聴きながら、ライトボックスでリアルな絵を写し取る作業を続けた。 英語学校、入歯工場、山川の手伝い、これらにおいて白土はつねに鉄二と行動を共にしていた。

1951年(19歳)、金野の指導で描き上げた紙芝居「ミスタートモチャン」(ノボル名義)を金野の紹介で紙芝居製作所「ともだち会」に売り込み、成功する。 以降三年間、ほぼ毎日この作品のシリーズを描き続けることになる。画劇と呼ばれた紙芝居のうち、このジャンルは日産の都合上少ない線で表現するため「マンガ」と呼ばれた。 画料400円はその都度相馬泰三から受け取った。

1952年(20歳)、5月1日の「血のメーデー」に参加する。この年、街頭紙芝居業者数がピークをむかえる。

1955年(23歳)、この頃から紙芝居は日本の経済成長における紙芝居業者の工場や会社への転業などにより縮小していく。葛飾区金町の平屋で瀬川拓男・小曽根喜一・星野芳夫と共同生活を始める。 この家は瀬川が先年松谷みよ子と暮らすために借りたものだが、1954年末に松谷が入院したことで、男4人が暮らすことになった。 ここではお互いをあだ名で呼び合い、自身はモヤシの三ちゃん(これは「ヤネウラ3ちゃん」からであろうか)、通称「三平」と呼ばれるようになる。 これにかつて長野にて出征した知人の青年将校の「白土」姓を借り、「白土三平」に筆名を変える。 10月、この共同生活に退院した松谷(11月に瀬川と結婚する)と、人形劇をやるために大阪から上京していた小林まゆみが加わる。 12月、NHKテレビの動く絵ばなし「どじ丸物語」(28日と29日に放映)をきっかけに瀬川が立ち上げた劇団「太郎座」の創立メンバーとなる。 ここから白土は紙芝居仕事の合間、劇のための舞台背景なども描きはじめる。

1956年(24歳)、街頭テレビ、電器店の店頭などとテレビの普及が増え、とくに東京では早期に街頭紙芝居の衰退きわまる。加太こうじの紹介で機関誌「子供を守る」の1956年1月号から次年1月号に4コマ漫画「まもるチャン」を全11回連載する。 夏ごろに金町の平屋を離れ、そこに出入りしていたかつての紙芝居仲間の牧かずまと暮らし始める。 この時点で白土は太郎座を抜けるが、瀬川による太郎座の活動は1970年まで約15年間続いた。 その後板橋区に転居し、小林まゆみ(李春子)と結婚する。

1957年(25歳)、5月頃に日暮里の団子坂で偶然再会した牧に漫画を描く事を勧められ、牧のアシスタントとして少女漫画を描き始める。 8月、巴出版株式会社から貸本漫画単行本(貸本)「こがらし剣士」が発行される。 漫画単行本は128枚の枚数が読み飛ばされるものであり、線の多い絵では売れなかったため、白土のようにデッサンのようなリアルな絵が得意であっても新たにこのジャンルの絵を学び直すことになった。 ただ、白土の場合は紙芝居で動きのある描写の技術を獲得していたため、コマ運びの妙は得意であった。
経歴 - 第一次ブームと飛躍
1957年9月頃、長井勝一のもとに牧の紹介で原稿を売込みに行く。長井はその前年に神田神保町で日本漫画社を創立していた。 白土はこの日本漫画社から19冊の貸本漫画を発行することになる。 当時、雑誌に描くと貸本の2倍以上の原稿料が手に入ったが、雑誌は原稿料が後払いだったため、白土はすぐに原稿料がもらえる貸本に多く描いた。この頃、作品制作に弟の鉄二が加わる。 1958年夏頃まで白土は牧の手伝いも続けていた。 1958年9月末、日本で初めて公式に名前の付いた狩野川台風が押し寄せたことで、白土は石神井川の氾濫による床上浸水の被害を受けている。

1959年夏、長井が浅草雷門の近くでバーを始めるために日本漫画社を突然たたむ。 しかたなく長井の紹介により東邦漫画出版社(東江堂)にて貸本「忍者旋風」「忍者人別帳」などを発行していくことになるが、ここは原稿料支払いの遅れることが多かった。 バーを違法建築(木造三階建て)により半年でやめた長井は小出英男と夜久勉との3人で三洋社を設立する。 小出と夜久は貸本漫画には疎かったが、長井が白土と親密ということを聞き、2人で200万円ずつ出資し経営、長井のみが編集実務に携わった。 12月に白土はそこから貸本「忍者武芸帳」の第1巻目を発行する。 これの発行部数は8000部(初版6000部・増刷2000部)、貸本屋の件数は決まっているが一番多い店では100回近く貸し出されたため、少なく見積もって50回としても40万人に読まれた業界の大ベストセラーとなった。 それでもまだ質屋通いや、借金に追われる日々が続く。「忍者武芸帳」は2ヶ月に1冊ずつ刊行を続け、1960年6月に発行した第4巻のキスシーンはPTAなどの反感を買い追い詰められたりもするが、このことがより少年読者の人気を押し上げた。

1960年7月、大手がその人気を聞きつけ、初の週刊誌連載作品「風の石丸」を始める。ここで第一次白土ブームとなる。 当時28歳の白土は、練馬区のアパート双葉荘で鉄二ともう一人の助手と共に仕事をし、貸本の原稿料は1頁500円から700円、1ヶ月に大体250頁もの1冊を仕上げている。 週刊誌連載のストーリーは昔描いたもの(貸本「甲賀武芸帳」全8巻中第4巻まで)を利用し、原稿料は一枚1800円で、1週間に22頁描いた。毎日徹夜が続く。 この月、週刊誌の初のインタビューに「ぼくが漫画を描いているということが、父の名誉にかかわるので、父の名前はどうしてもいえない」と答え、同時に洋画家になる夢も持ち続けている。 この父に触れてほしくないという心理はこれより少し前の白土初のインタビュー記事への反応にもあらわれており、漫画は低俗(子供向けとして下に見られていた)という当時の一般認識からこれを恥じていたのだろう。

1961年3月に長井が結核で入院する。そのため、三洋社の編集実務は岩崎稔と松坂邦義の2人が引き継いだ。 夏、月刊誌「少年」に「サスケ」の連載を開始する。これは「少年」編集部にいた桑田裕の理解によるところが大きい。 掲載の条件として、白土が譲る形となったのは手塚治虫の「鉄腕アトム」に少し似せることだった(アトムもまたミッキーの●を▲にした造形だけれども)ようだが、この作品は白土の知名度をまた大きく上げた。 三洋社業務に関わらなくなった長井は、1962年1月に手術(手術代は白土が肩代わりする)を受け、千葉県勝浦市の療養所に転院、入院しながら青林堂を設立する。 7月、ここから連載「サスケ」をまとめた貸本「サスケ」を刊行開始する。 長井のいなくなった三洋社は経営がうまくいかなくなっており、「忍者武芸帳」の最終2冊は倉庫を同じくしていた東邦漫画出版社からの発行となった。
経歴 - 雑誌を創る
1963年に「シートン動物記」と「サスケ」で第4回講談社児童まんが賞を受賞する。 作品末に日付を入れるなど、白土は自分の作品を大事にした。しかし、当時漫画はどこまでも消耗品として扱われたのである。 白土の初期作品復刊作業のほとんどが、生原稿からではなく刊行物からのスキャンで成り立っている理由は、そういった時代状況にあった。 それでも白土は原稿の返却を訴え続けていたぶん、ほかの漫画家に比べてまだ原稿が残っているほうである。 このような状況を打破するためには、力関係上、早く制作体制を会社組織にする必要があった。 貸本の世界も週刊誌の台頭で衰退を極めており、決断を迫られていた。

1964年、6月放映開始のテレビアニメーション「少年忍者 風のフジ丸」に作品「忍者旋風」のストーリーを提供する。 これは当初は「サスケ」のアニメ化企画であった。 同時期に作品制作の態勢を「赤目プロダクション」(赤目プロ)とする。 そして7月、入院中の長井の協力で青林堂から雑誌「月刊漫画ガロ」(ガロ)9月創刊号を発売。 発行部数は8000部、うち5000部が貸本組合に納められた。 創刊号には、白土夫人である李春子が文を書き妹の颯子が挿絵を画いた小説や、作品「シートン動物記」原作者の内山賢次に依頼した物語の掲載、 貸本作家からはアシスタントの小島剛夕が変名で参加、そして水木しげるを雑誌デビューさせている。 水木においては、先の漫画賞受賞者の権限で推薦し同じ賞を受賞させ、水木の知名度を上げるきっかけともしている。 つまり白土は自分で雑誌を作ることで、剛夕・水木・つげ義春など時代とともに消えていくには惜しいと感じた貸本漫画家を救っている。

ガロは初期半年間まったく売れず、白土は創始者のために原稿料も約3年間出なかった。 そのため複数の雑誌社に連載をもつことでなんとか採算をとることになる。 それが集英社の「真田剣流」(1964年9月-)、講談社の「ワタリ」(1965年4月-)、小学館の「カムイ外伝」(1965年5月-)などである。 1964年末、白土は入院中の長井との打ち合わせの延長で勝浦の旅館に宿泊。このとき、勝浦市興津から夷隅川上流まで延々歩き、偶然大多喜の旅館「寿恵比楼(すえひろ)」を発見する。 複数連載の多忙による睡眠不足や精神的圧迫感から体調を崩した白土はその療養も兼ね、たびたび家族で、または赤目プロのメンバーたちでこの旅館に泊まるようになる。 1965年7月には貸本「サスケ」と貸本「忍法秘話」の刊行を掲載作品未完のまま中止する。 1965年10月、この旅館につげ義春を連れて行き、10日間ほど泊まる。それを機につげの作風が大きく変わっている。 ここでは作品制作の合間、釣り・木登り・きのこ狩りなどをするが、白土はこれをこの旅館に泊まる最後にした。
経歴 - 第一次産業界からの実験
1966年末、内房の富津市湊、湊川下流の家を借りて通い住むようになる。 この時期白土は「サンデー毎日」1967年1月1日号の特集「"いい感じ"の日本人」で芸能人や著名人を抑え第一位になるなどしている。 その後、そこから南下した萩生に移り住む。そのようにして4度、富津市で居を移している。 住居は千葉に置いたが、練馬の赤目プロ事務所はそのまま継続して使用し続けた。 白土は千葉に移り海を知り、磯遊びから陸釣り、そして沖釣りへと近所の漁師に付いて勉強するようになる。 1967年4月、ガロ連載作品「カムイ伝」単行本を小学館から発売開始する。

1971年7月、「カムイ伝」の連載終了。それとともにガロは売れなくなったが、2年後の「カムイ伝」再開予定のために長井は刊行を続ける。 しかし白土は「書くタイミングをのがした」と言い、結局ガロ誌上での「カムイ伝」の再開はならなかった。

1975年、小学館の隔週刊誌「ビッグコミック」に神話伝説シリーズの連載を始める。 白土が「実験的な作品だった」と回想するように、これは過去白土が挑戦してきた専門的研究に耐えられるような解釈を、文字と描写一体として表現しようと実験したもので、 小説ほど視覚表現を排除しない、絵画のように解釈をほかに委ねきらない紙上による総合表現媒体の確立を訴えたものだった。 また漫画でありながら「子供」の視点を完全に排除する作風への変化でもあった。

続けて1981年からは女星シリーズ、1982年からは「カムイ外伝 第二部」を連載する。 1983年からは「白土三平フィールド・ノート」という写真エッセイの連載を始める。 これは自身の生の猟師町での経験をそのまま綴っている。 1987年に「カムイ外伝 第二部」の連載を終了し、1988年にそのエッセイの連載を終了した直後、ついにライフワークである「カムイ伝 第二部」の連載を開始する。 この時、第一部の終了から17年が経過していた。 2000年にこの作品も連載終了し、「カムイ伝 第三部」の執筆を進めていた。
主な資料
※「漫画家人名事典」まんがseek著・編集部著(2003年2月25日発行/日外アソシエーツ) :血液型
※「岡本唐貴自傳的回想画集 岡本唐貴自選画集」岡本唐貴(1983年発行/東峰書房) :鉄二・眞の出生記述
※「週刊アサヒ芸能」1960年8月14日号(マスコミの知らないベスト・セラー/アサヒ芸能出版) :1938年-1946年頃、1960年の記述
※「ビッグコミック」2007年1月25日号-3月10日号(「カムイ伝」の原風景をいく長野編/毛利甚八) :1944年-1945年頃の記述
※「カムイ伝全集」第7巻(「白土伝4」(毛利甚八)/2006年2月1日発行/小学館) :1946年-1955年頃の記述
※「完全復元版忍者武芸張」」第1巻(「白土三平研究」内、加太こうじ寄稿/1970年4月25日発行/小学館) :1951年-1956年頃の記述
※「週刊朝日」2007年2月2日号(自伝「じょうちゃん」第22回(松谷みよ子)/朝日新聞社) :1955年頃の記述
※「白土三平論」四方田犬彦(2004年2月27日発行/作品社) :筆名「三平」の由来
※「カムイ伝全集」第3巻(「白土伝2」(毛利甚八)/2005年12月1日発行/小学館) :筆名「白土」の由来
※「月刊漫画ガロ」1994年9月号(対談:白土三平×長井勝一/1994年9月1日発行/青林堂) :牧との出会い、長井との出会い
※「「ガロ」編集長」 長井勝一(1982年4月25日発行/筑摩書房) :鉄二の手伝い始め時期など長井期全般
※忍風カムイ外伝ファンクラブ会誌「疾風」第3号(鷺巣政安インタビュー/1977年4月9日発行) :「サスケ」連載経緯
※文春文庫ビジュアル版「幻の貸本マンガ大全集」(1987年3月10日発行/文藝春秋社) :作品末日付について記述
※「少年漫画劇場」第8巻(長井勝一による寄稿/1971年8月5日発行/筑摩書房) :白土が締め切りを必ず守る記述
※「ラピタ」1995年冬号-1999年3月号(「白土三平の好奇心」/1994年12月20日-1999年3月1日発行/小学館) :千葉期全般
※「つげ義春を旅する」高野慎三(1998年「つげ義春幻想紀行」ほるぷ出版の再録/2001年4月10日発行/筑摩書房) :大多喜の旅館について
※「貸本マンガ史研究」第3号(香田明子氏インタビュー/2000年12月15日発行/貸本マンガ史研究会) :三洋社時期記述
※「貸本マンガ史研究」第5号(松坂邦義インタビュー/2001年6月23日発行/貸本マンガ史研究会) :東邦漫画出版社=東江堂記述
※「ビッグコミック」2003年10月10日号(創刊1000号) :神話伝説シリーズに対する「実験的な作品だった」発言
年齢表
1932年(昭和7年)2月15日(月)に出生
1933年(昭和8年)数えで2歳、2月15日(水)に満1歳になる
1934年(昭和9年)数えで3歳、2月15日(木)に満2歳になる
1935年(昭和10年)数えで4歳、2月15日(金)に満3歳になる
1936年(昭和11年)数えで5歳、2月15日(土)に満4歳になる
1937年(昭和12年)数えで6歳、2月15日(月)に満5歳になる
1938年(昭和13年)数えで7歳、2月15日(火)に満6歳になる
1939年(昭和14年)数えで8歳、2月15日(水)に満7歳になる
1940年(昭和15年)数えで9歳、2月15日(木)に満8歳になる

1941年(昭和16年)数えで10歳、2月15日(土)に満9歳になる
1942年(昭和17年)数えで11歳、2月15日(日)に満10歳になる
1943年(昭和18年)数えで12歳、2月15日(月)に満11歳になる
1944年(昭和19年)数えで13歳、2月15日(火)に満12歳になる
1945年(昭和20年)数えで14歳、2月15日(木)に満13歳になる
1946年(昭和21年)数えで15歳、2月15日(金)に満14歳になる
1947年(昭和22年)数えで16歳、2月15日(土)に満15歳になる
1948年(昭和23年)数えで17歳、2月15日(日)に満16歳になる
1949年(昭和24年)数えで18歳、2月15日(火)に満17歳になる
1950年(昭和25年)数えで19歳、2月15日(水)に満18歳になる

1951年(昭和26年)数えで20歳、2月15日(木)に満19歳になる
1952年(昭和27年)数えで21歳、2月15日(金)に満20歳になる
1953年(昭和28年)数えで22歳、2月15日(日)に満21歳になる
1954年(昭和29年)数えで23歳、2月15日(月)に満22歳になる
1955年(昭和30年)数えで24歳、2月15日(火)に満23歳になる
1956年(昭和31年)数えで25歳、2月15日(水)に満24歳になる
1957年(昭和32年)数えで26歳、2月15日(金)に満25歳になる
1958年(昭和33年)数えで27歳、2月15日(土)に満26歳になる
1959年(昭和34年)数えで28歳、2月15日(日)に満27歳になる
1960年(昭和35年)数えで29歳、2月15日(月)に満28歳になる

1961年(昭和36年)数えで30歳、2月15日(水)に満29歳になる
1962年(昭和37年)数えで31歳、2月15日(木)に満30歳になる
1963年(昭和38年)数えで32歳、2月15日(金)に満31歳になる
1964年(昭和39年)数えで33歳、2月15日(土)に満32歳になる
1965年(昭和40年)数えで34歳、2月15日(月)に満33歳になる
1966年(昭和41年)数えで35歳、2月15日(火)に満34歳になる
1967年(昭和42年)数えで36歳、2月15日(水)に満35歳になる
1968年(昭和43年)数えで37歳、2月15日(木)に満36歳になる
1969年(昭和44年)数えで38歳、2月15日(土)に満37歳になる
1970年(昭和45年)数えで39歳、2月15日(日)に満38歳になる

1971年(昭和46年)数えで40歳、2月15日(月)に満39歳になる
1972年(昭和47年)数えで41歳、2月15日(火)に満40歳になる
1973年(昭和48年)数えで42歳、2月15日(木)に満41歳になる
1974年(昭和49年)数えで43歳、2月15日(金)に満42歳になる
1975年(昭和50年)数えで44歳、2月15日(土)に満43歳になる
1976年(昭和51年)数えで45歳、2月15日(日)に満44歳になる
1977年(昭和52年)数えで46歳、2月15日(火)に満45歳になる
1978年(昭和53年)数えで47歳、2月15日(水)に満46歳になる
1979年(昭和54年)数えで48歳、2月15日(木)に満47歳になる
1980年(昭和55年)数えで49歳、2月15日(金)に満48歳になる

1981年(昭和56年)数えで50歳、2月15日(日)に満49歳になる
1982年(昭和57年)数えで51歳、2月15日(月)に満50歳になる
1983年(昭和58年)数えで52歳、2月15日(火)に満51歳になる
1984年(昭和59年)数えで53歳、2月15日(水)に満52歳になる
1985年(昭和60年)数えで54歳、2月15日(金)に満53歳になる
1986年(昭和61年)数えで55歳、2月15日(土)に満54歳になる
1987年(昭和62年)数えで56歳、2月15日(日)に満55歳になる
1988年(昭和63年)数えで57歳、2月15日(月)に満56歳になる
1989年(昭和64年)数えで58歳、2月15日(水)に満57歳になる ※1989年1月8日からは平成元年
1990年(平成2年)数えで59歳、2月15日(木)に満58歳になる

1991年(平成3年)数えで60歳、2月15日(金)に満59歳になる
1992年(平成4年)数えで61歳、2月15日(土)に満60歳になる
1993年(平成5年)数えで62歳、2月15日(月)に満61歳になる
1994年(平成6年)数えで63歳、2月15日(火)に満62歳になる
1995年(平成7年)数えで64歳、2月15日(水)に満63歳になる
1996年(平成8年)数えで65歳、2月15日(木)に満64歳になる
1997年(平成9年)数えで66歳、2月15日(土)に満65歳になる
1998年(平成10年)数えで67歳、2月15日(日)に満66歳になる
1999年(平成11年)数えで68歳、2月15日(月)に満67歳になる
2000年(平成12年)数えで69歳、2月15日(火)に満68歳になる

2001年(平成13年)数えで70歳、2月15日(木)に満69歳になる
2002年(平成14年)数えで71歳、2月15日(金)に満70歳になる
2003年(平成15年)数えで72歳、2月15日(土)に満71歳になる
2004年(平成16年)数えで73歳、2月15日(日)に満72歳になる
2005年(平成17年)数えで74歳、2月15日(火)に満73歳になる
2006年(平成18年)数えで75歳、2月15日(水)に満74歳になる
2007年(平成19年)数えで76歳、2月15日(木)に満75歳になる
2008年(平成20年)数えで77歳、2月15日(金)に満76歳になる
2009年(平成21年)数えで78歳、2月15日(日)に満77歳になる
2010年(平成22年)数えで79歳、2月15日(月)に満78歳になる

2011年(平成23年)数えで80歳、2月15日(火)に満79歳になる
2012年(平成24年)数えで81歳、2月15日(水)に満80歳になる
2013年(平成25年)数えで82歳、2月15日(金)に満81歳になる
2014年(平成26年)数えで83歳、2月15日(土)に満82歳になる
2015年(平成27年)数えで84歳、2月15日(日)に満83歳になる
2016年(平成28年)数えで85歳、2月15日(月)に満84歳になる
2017年(平成29年)数えで86歳、2月15日(水)に満85歳になる
2018年(平成30年)数えで87歳、2月15日(木)に満86歳になる
2019年(平成31年)数えで88歳、2月15日(金)に満87歳になる ※2019年5月1日からは令和元年
2020年(令和2年)数えで89歳、2月15日(土)に満88歳になる

2021年(令和3年)数えで90歳(卆寿)、2月15日(月)に満89歳になる、10月8日(金)未明死去、10月26日(火)13時メディア発表

※1955年秋頃、太郎座創立メンバー(右下に23歳の白土):単行本「戦後人形劇史の証言」(1982年4月19日発行)/一声社
※1964年当時、32歳の白土三平近影:雑誌「アサヒグラフ」1967年11月24日号/朝日新聞社 ※発表は1967年だが、撮影は1964年
※1967年当時の長井勝一近影:雑誌「コミック・ボックス」1996年5月号/ふゅーじょんぷろだくと
※1994年当時、62歳の白土三平近影:雑誌「月刊漫画ガロ」1994年9月号/青林堂