旧小学館文庫 あとがき |
忍者武芸帳 第2巻・土一揆(初版1976年4月20日) P214-P215 |
あとがき 白土 三平
生きものにとって、個と種、個人と集団の中にある矛盾ほど大きなものはあるまい。 昔、よく猫がねずみを捉(とら)え食うのを目撃したものである。最近は、テレビによって野生動物の生態記録シリーズの画面から、さまざまな動物の天敵関係にまつわる壮絶な闘争場面に接する機会にめぐまれている。 自然界における食物連鎖としてのある種のもつ宿命として、猫に食われるねずみの場合もあてはまる。そして、その日その時、命を落とした一匹のねずみにとっては、運命のいたずらとしかいえまい。しかしねずみは、その最後の瞬間まで己の運命はおろか宿命にまでさからって闘った。〔ピューマ(アメリカライオン)ビーバーとの闘いはさらに強烈な印象をあたえる〕 この絶望的な闘いが、何故おこなわれ、まして無駄とも思える努力が、何故に客観的に存在するのだろうか?存在するからには、それなりの意義があるはずである。それとも死の恐怖から生まれる単なる反射的なあがきの行動だとしても……、それでは、その恐怖は何のための恐怖なのだろうか?相対的にいって、個体の存在なくして種の存在はありえない。となれば、個体の確保ということは、かくも何百分の一、いや、それよりもさらに歴史的にくり返さねばならぬほどの確率をもってしても試さなければならない行為なのだろうか?……別の運命が、この個体の上にもたらすチャンスをつかむために……、又繁殖率からいっても、一匹のねずみのかかる努力は無に等しくとも……。 この全く展望のない状況の無駄な行為の連続的な継続を、いつの日か、別の角度からの攻撃(創造性)によって新たなる局面を迎えるための貴重な無意味とすれば、獣(けだもの)とはなんと大変な宿命をおわされてこの世にあるのだろうか!?ただ、かつて人々があるとき歩みだしたように、宿命を宿命たらざるものに変えたとすれば、ねずみはすでにねずみではなくなるわけだが……、ねずみにとって道すじすら見えぬ遠き未来も、人においてはなんと近くにあることだろうか……。 天使が落ちぶれて生まれたのではなく、猿の仲間から起きたわれらにとって、多くの遺産を受けつぐ人間に生まれたことは、なんと喜ばしいことではないだろうか……、かつて身分地位差別も、支配さえもない社会に生きたわれわれであってみれば……。 一九七六年二月 |
以降単行本への再録は無し。 |
カムイ外伝 第1巻・九の一(初版1976年4月20日) P230-P231 |
あとがき 白土 三平
この作品をかいて、すでに10年以上が経過している。当時、雑誌「ガロ」に「カムイ伝」を執筆中であったが、その中の幾多の登場人物中から、非人の忍(しのび)少年・「カムイ」だけを取りだし、「少年サンデー」に読切り短編ふうに発表したのが、この「カムイ外伝」である。宣伝もふくめ、経済的にもよく本伝を支えてくれていたように記憶している。 抜忍(ぬけにん)カムイは、全くの逃亡者である。一般的に物語中の逃亡者というものは、死ととなり合わせに身をおきながらも、ある一つの夢なり目的をもっていて、万に一つの機会(チャンス)をものがさず、それを己の手に入れた時には、逃亡者としての己の境遇から脱し得る。ここに個としての可能性の展開が、そして逃亡の意義もあるわけだが……。 非人からの奇跡的な個人的飛躍をなしとげ、その帰結としての抜忍への道を歩んだカムイには、個としての可能性の展望も、もはや存在する価値すらもない。ただ、他から押しつけられる死を拒否するがゆえの逃亡にすぎない。 狩られる動物(もの)が、一日を生きのびるように……、ただ獣(けだもの)には、この絶望的状況を変えることはできない。ただ、人であるということのみが、カムイのもつ可能性であろう。 いつか、人であれば何かを見つけだすかもしれないから……。 古くより、漁師の言葉に「山(やま)たて」というのがある。山を見て漁師は海にての己の位置を知る。その山も見えなくなろうとする時、点のようにのこる山影を、女の乳房の先端に例えて、「女星(にょぼし)」と呼ぶ。この「女星」も消えて、その先に広がるのが、かつての海の男達をおそれさせた死の海原(うなばら)、「大難(だいなん)」の海である。 いま、この「大難」の海原にカムイが、「女星」を見つけ得たとすれば……、そこから歩みだしたとすれば……、それは、すでに「外伝」の世界ではない。 己が何処(いずこ)から来たのか、己が何であるかを忘れた時、人に本当の死が近づく。己の故郷(ふるさと)の燈明(あかり)を、もう一度ふりかえる時がある。深い霧につつまれて……。 一九七六年一月 |
以降単行本への再録は無し。 |
忍法秘話 第1巻・スガル(初版1977年1月20日) P244-P245 |
あとがき 白土 三平
私はきのこ取りが好きだ。少年時代、よく自分が入ってしまうほどの籠(かご)をしょって、山中をかけめぐったものだ。 先日も、30年ぶりに幼馴染(おさななじみ)と山へ入ってみた。30年の空白は大きい。だが、あと二、三度ゆけば感は取りもどすだろう。一日で30歳の歳をとったと友人は言った。 「三平! 尾根の左側の道は人の道、右側のはけもの道だ。」 ある間隔に熊の糞が続く。かつて、同じように人とけだものはこの道を通ったのだろうか? いや、別々の道でなく同じ一つの道を通っていたのかもしれない。 カブツ、シモフリ、ネズミ、チャワン、さまざまのきのこが籠の中に入ってゆく。そのまま見すてられ投げ捨てられるきのこもある。 「最初に、きのこを食った奴はたいした奴だ。」 「火を発見した奴も、発火の法を見つけだした奴もえらい奴だ。」 おそらく、それによっていままでの群の取決めや習慣は一変したことだろう。いままで、死によってあがなわねばならぬ罪が一朝にして消滅したこともあったろう。どうしても権威が必要になり、はじめて支配者が現われたこともあったろう。 人々が運命や宿命から少しずつときはなたれたとき、あらたなそれらが人々におしかかる。 人は一人の個人として生まれ死んでゆくのだが、一方ではその群や集団の一員として生きねばならない。そこで、人は己の望まぬ生き方を強いられる。どのように他と関わりを持たず一人で生きたいと思っても、その考え方や行動の様式は人間のそれであり集団のそれである。それを拒否したとき(野生の少年のように)それは人間ではなくなる。 人間はなぜ人間になってしまったのか。こうもりがなぜ空を飛ぶように進化し、もぐらがなぜ土にもぐるように変わったのか。なぜもぐらは空を飛ばなかったのか。自身、その一部である自然を破壊してまで人間は人間になってしまったのか、これは私にとって、じつに謎なのだ。 |
以降単行本への再録は以下。
・SS版第5巻(1992年)巻末に収録 |
サスケ 第2巻・円月剣の巻(初版1977年2月20日) P212-P216 |
あとがき 白土 三平
忍法に三形三十法(さんぎょうさんじゅっぽう)というのがある。隠法、遁法を、おおまかに天、地、人の三つに分け、その下に十法づつにその原理を示したものであるが、これを支える技術面として練活(れんかつ)、妙活(みょうかつ)、薬活(やっかつ)の三活法(さんかっぽう)がある。 妙活は、鳥獣を飼いならしたり、偽音(犬、鳥、虫、人のコワイロ)の修得、忍者用具の使用、読心術、催眠術等々の練磨である。練活は、跳躍とか走法、呼吸法等、おもに体術を基本とする部門である。薬活は、読んで字のごとく、毒薬調合等の薬剤関係の知識と実際を身につけるわけである。 これを修得するのに血と汗の訓練が要求されるのである。どのようにすばらしい秘術の原理を知っていても、これを支える基礎体術がおろそかであれば術を施すことは不可能である。またぎゃくに、長い歴史の中で人々の血によって蓄積された知識や経験をとおして獲得された原理を知らずして、どのような技術も生きてはこないだろう。また、その技術じたいにも長い歴史があったことだろう。 もって生まれた天分、人一倍の努力によって、より多くの秘術を身につけ、幸運が長命をもたらしたとき、はじめて、いわゆる名忍がその名をのこすことになるのだろう。 ところで、我々が忍者マンガを画くときにもいちばん苦労するのは、この秘術をいかに多く、しかもすばやく身につけるか、ということである。なにしろ、締切りと締切りの間に一つか二つの新しい術をあみださなければならないのである。これは、いかなる名忍といえど至難の技である。忍法に関する諸々の文書をあさって得た知識もおおいに役立ってくれるだろう。 だが、こういったものは、えてしてマンガに表現したときに地味で、あたりまえの事のように思え、面白くもなんともないものになってしまう。そこで、マンガ忍法の秘術や秘剣が生まれてくる。いわゆる、小島忍法とか白土忍法とかいうものである。 秘術に、月影というのがある。これも私のあみだしたものである。十年以上も昔のことである。つまり、ツキカゲとは、月影、月陰、隠月の三様にかいしゃくされる。月影は水面などにうつる月じしんの影である。月陰は、月の光によってできた陰。隠月は、月が他のものによって隠されたことである。 これらは術として三種三様に展開されるわけだが、月影、月陰は、あまりにも一般的なのではぶくとして、隠月のみに焦点をあてよう。すなわち、隠月は、カゲリとも読まれ、翳(かげり)とかき、人に見えざる所という意である。つまり狙う標的を月にみたて、雲にて月の光をさえぎり、この雲ごしに的を射るわけである。具体的には、海草ごしにメバル(目のよい魚の一種)を突いたり、木の葉ごしに小鳥を落としたり、鳥やけだものを利用し、これを雲として相手の視力や感を封じて、雲ごしに刺すのである。編笠を投げつけ、その裏から小刀を投げるのも同じ法である。……と述べてくると、それらしい感じもしてくるのだが、これは縁側に置いておいた食べのこしのコロッケの上に柿の落葉がのっかったのがきっかけでできあがった術である。 迷葉(まよいば)は、きのこ取りなどにいって襟にささった松の落葉から。蚊幕(かまく)は、山あるきで茨(いばら)に苦しんだ経験がヒント。変移抜刀霞斬り(へんいばっとうかすみぎり)は、お神楽(かぐら)のへんてこな踊りから。風移し(かぜうつし)は、風の日に鶏(とり)を料理している隣りのおっさんと喧嘩したとき。三ツ角(みつかど)(手裏剣)は、散弾銃の流れ弾をくらったとき。 こんな変ったのもある。海の生物(いきもの)にくわしい人なら知っているだろうが、赤クラゲというのがいる。わりあいと大きくて赤茶色の紋様がある。これは毒があって、さわった手で目をこすったりすると、ヒリヒリして涙がでてあいていられなくなる。これが浜などにぶちあがって乾いて、くずれ、粉末になって風でとんだりすると、これを吸ったものはクシャミが止まらなくなる。漁師たちのクシャミのことをハナフイといっているが、この赤クラゲの別名にもなっている。これから春花の術(しゅんかのじゅつ)が生まれている。 おもわぬことがきっかけで秘術が誕生してくるわけだが、こうやって見てくると、どうも私の術は、単細胞のせいか、動植物の生態的なものや物理的なものからの発想にかたよっている風(ふう)が見うけられる。同じ技と術、体力をもった者どうしの対決であれば、心理的な背景、その駆け引き、優劣の差が勝敗の決定を左右する。そうなると術は心理的なものほど、水準が高いようにいえる。 つまり心理的術の欠如が、白土忍法の未熟さであり、欠陥ということになる。これでは忍法としては落第である。事実もそうなのである。 よくあの人は「まるで忍者だね。」とか、いわれる人がある。朝、山芋をほっていたかと思うと、もう昼すぎには対岸の町のストリップ小屋で会ったりするぐらいはいいほうで、タコを食わせるというので出かけると、○○のイケスに入れてあるから取って来てくれなんて言うから、タコがほしいものだから車で取りにいって、ついでに仲買いだという人の所へおろして、代金を受けとってきてやる。タコを三匹もらって喜んでいたら、半月ほどたって警察に事情を聞かれたりする。 あるときは、「おらちの女房をかすからよう。われの女房かせさぁ。」なんて、だしぬけに言うから「負けそう。」なので黙っていると、「アンコウ一本つけっからよう。」などと言う。近頃、こういう人とは付き合わないようにしている。術のかけられっぱなしという感じである。 また、こういう人もいる。やはり漁師なのだが、沖からあがって来るとクズ魚でオカズの用意をしている。すると、ちょっとしたすきに猫が魚をくわえて逃げていったらしい。「この泥棒猫め!」と追いかける。裏の家の庭の中でキョロキョロさがす。裏の家の住人が「われ、あんしてる?」「猫の野郎が、ホウボウくわえやがって……、とんでもねえ野郎だ!見ねったかい?」なんて怒鳴ると、「いいから、あがってこうさ!まあ、一杯やれさ。」てなことになってしまう。それからまた、一週間もたつと、「この泥棒猫め!」とやりだす。忍者である。しかも、オカズもいらないし、料理の手間もはぶけるし、酒代もたすかる。その上、自然の出来事なんだから、お返しをしないでもすむ。安心感にみちあふれている。ものすごい術である。 ぜひ、この術を身につけたいと思っているのだが、じつに難しい。先ず手頃な猫を物色しなければならないし、なんといっても駆けこんで行くタイミングの呼吸である。もう一息というとこで、教養が邪魔するというかなんというか、試してみるには踏ん切りがつかないでいる。 一度、じかに手ほどきをねがいたいと思っていたのだが、惜しいことに、去年の春、海におちて死んでしまった。 一九七六年十二月 |
以降単行本への再録は無し。 |
忍者旋風 第2巻・残月の巻(初版1977年9月20日) P193-P195 |
あとがき 白土 三平
この作品が描かれて、すでに20年近くがたっている。テレビが出はじめて間がなかった頃で、今のように誰にでも簡単に買える時代ではなかった。ひたすらに生活費を得るために夢中になっていたのを記憶している。 素朴さや未熟さが目だつが、私にとって故郷(ふるさと)のような作品である。読みかえすと、懐かしい人々や事件に会うことができる。かつて、私の住んでいた地域で、丸木、赤松夫妻の「原爆の図」展をひらいた時、ともに会場の確保、展示の準備、ポスター張り等でかけまわった友が、その頃、死んだのをふと思いだした。戦争にいった世代の友も年々少なくなっていく。 ところで、昨日、文部省が発表した「学習指導要領」によれば、核兵器否定の記述は削除され、公害の表現がうやむやにされている。そして「君が代」が国歌として指定された。 これは、ある者たちにとっては、懐かしい道であるかもしれない。 房総半島の中ごろ、海岸に突きでた岬に沿ってN山の麓を川沿いに奥へ進むと、溪谷と崖や木々に覆われて昼なお暗い道が続く。岩肌には、清水がしたたり、蛇苔や大文字草やイワタバコがびっしりと蔦のようにしげり、枯葉に覆われた道は、所どころ水が溜り足をぬらす。ふと気づくと、樹々のこもれ日に水溜りが黄金(こがね)色に輝いている。 やがて、金箔(きんぱく)をはいたような道が行く手に続く。国指天然記念物「ヒカリ藻」の群生地帯に足を踏み入れているのだ。 この「ヒカリ藻」は、もともとは海水産の藻で、いつの頃か、海が後退したためか、それとも自ら陸へはい上ったのか、うまく淡水域に適応し光り輝いている。 人も、いつの時か、木から降りたのか、それとも水からはい上ったのか(水棲動物であったという説もある)、この細い暗い道を、それこそかすかな光に導かれ歩んできたはずだ。初めに棒をひろい、石を投げたものの手に剣がにぎられ、銃の引きがねに指がかかり、広島、長崎にきのこ雲が立ちのぼり、今、月に人の影がうつる。 環境破壊をしたのも人間であれば、公害に反対するのも人間である。 人が内面性を確保するまでに、いくたの危険なまわり道をしなければならないのは悲劇である。鹿を喰いつくしてしまった狼はいないが、狼等の野性動物は人によって滅ぼされつつあるし、いずれそうなるだろう(日本狼はすでに絶滅している)。 アメリカ・インディアンを殺し、アフリカの黒人の血と汗に依って生まれたアメリカの誕生も人の歴史ならば、人は、その到達するだろう内面的な高まりに依ってのみ己の罪をあがない、自身を救うことになる。人の歩む道すじを明るくてらすのも人自身ならば、その未来をもち得るのも己の努力いがいにない。 藤の花が咲いている。今頃、いつものようにあの道は、ほの明るく光っているだろう。 一九七七年六月 |
以降単行本への再録は無いが、SB「忍法秘話」第1巻寄稿文で一部引用されている。 |
シートン動物記 第1巻・スプリングフィールドの狐(初版1980年10月20日) P277 |
あとがき 白土 三平
自然にあまり興味をいだかない人でも、大草原に、のどかに草をはむ数十万頭の野生動物の姿を見たとき、なんとも言えぬ感動をおさえることはできないだろう。 突如おこる咆哮(ほうこう)。立ちのぼる砂煙。あわれな悲鳴が消えると、そこには数頭の肉食獣によって食いさかれる生贄(いけにえ)の姿が目に映る。そして、ひととき騒然としたどよめきも、すぐに収まり、自然は何事もなかったかのような元の姿にもどる。 また、あるときには、自ら進んで敵の前に生命をかけて立ちはだかり、群を救うリーダーをもつ種もあるだろう。牛や馬、豚のように人間に近づき、己れの種の存亡を、寄生虫的な無精かつ怠惰な生活ではあっても、人間との共生に求めるものもある。人間も、たとえ国家の目的が個人の理念とかけはなれていたとしても、掟や規範、法によって、己れの属する社会や国家を維持するために、犠牲として死んでゆかねばならない。 ただ、ちがうのは、野生動物がまったく自然の一部で在り続けようとするのに、人と家畜は、別の道を歩んだというだけのことである。 私は野生動物の物語が好きだ。それは、ひたすら己れの生きかたを生きることによって滅び、滅びることによってのみ己れの存在を主張するものの挽歌であり、その供犠を見つめる人間の心の詩(うた)でもある。 一九八〇年六月 |
以降単行本への再録は以下。
・SB版第2巻(1999年)巻末に収録 |
ワタリ 第1巻・第三の忍者の巻一(初版1983年10月20日) P230 |
あとがき 白土 三平
とかく人は、隠されたものを見たがるものだ。他人の私生活だとか、男なら女性の秘められた部分に、異常な関心を示す。 ところが、ふし穴ではないが、見えているが見えないものもある。草を食べる動物がある。その動物を捕える肉食動物がいる。野うさぎを食べつくしてしまえば、天敵である山猫も滅びてしまう。植物でも動物でも、死ねばさまざまの菌類が分解し、無機物へと還元してしまう。その無機物をもとにして、植物は再生する。もし、この世に菌類というものがなければ、地球は動植物の死骸に埋もれて廃虚と化していることだろう。ところが、菌類はキノコやカビをのぞけば、人の眼にふれることはない。木が倒れ家の屋根をとばされて風の存在を知り、水にもぐって空気のありがたさを知る。 だが、人はまわりをうかがう己の姿には、なかなか気づかない。 この作品をかいて久しい。その時、作中の登場人物たちも私も、見えないものを見ようとして、己らの姿を見ることが出来なかった。0(ゼロ)はいまだに健在である。 一九八三年七月 |
以降単行本への再録は以下。上から刊行順。
・SS版第1巻(1995年)巻末に収録 ・SB版第1巻(1998年)巻末に収録 |
※全て原文のままであり、誤字・脱字などもそのままにしている。
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