参考資料考
神話の構造

『神話の構造 ミト-レヴィストロジック』吉田敦彦(1978年9月10日発行/エピステーメー叢書/朝日出版社)

白土は下記作品においてこれを参考資料に挙げている。
神話伝説シリーズ11『ボロロ』(1979年) :小学館文庫『ワタカ』に収録

この本『神話の構造』は、神話に対するレヴィ・ストロースの解釈を日本人の筆者が論考し発表した論文4つを自身でまとめた本で、白土が資料にしたのはその中の「ボロロ神話の論理」という章に載る一神話である。フランスの思想家レヴィ・ストロース(Levi-Strauss,1908.11.28-2009.10.30)は、20歳代のほとんどを南米ブラジルで過ごし、ボロロ族の調査などをおこなう。彼の採取した現地の神話を元に白土作品『ボロロ』は描かれた。

自分たちの知る仕組みをあとに伝えていく為に、それを出来るだけ多く、しかも憶えやすく含有した言葉の連なりを作り出す。文字を持たないボロロ族にとって、その精度はより重要になってくる。まず原話を簡単に要約する。

昔、ボロロ族(内トゥガレ半族)のビリモッド・バイトゴゴ(きれいな皮膚・閉じこめられた者の意)の妻が彼女の兄弟によって犯された。息子からその話を聞いたバイトゴゴは妻を殺し、埋め隠した。バイトゴゴは居なくなった母を必死で探す息子を放って置き、新しい妻を娶る。息子は母をもっとよく捜そうと鳥になり、上空からバイトゴゴの肩にフンを落とす。それによってバイトゴゴの両肩からはジャトバの大木が生える。人に見られるのを恥じたバイトゴゴは村を出、さまよい歩く。彼が歩き疲れて休憩するたびに、そこに湖や川が生じた。この時初めて地上に水が生まれた。水が湧き出るたびに肩の木は小さくなり、そしてすっかり無くなった。

バイトゴゴは自分の創り出した緑の風景が気に入ったので、もう村には帰らないことを決めた。首長の座を彼の父親に譲り、バイトゴゴが不在の間首長をしていたボロゴもバイトゴゴに倣って父親に首長を譲り、二人は死者の霊たちの住む村の首長になった。そこで二人は身に着ける多彩な飾り(ボロロ族はペニスサックと飾り以外身に付けない)を発明する。彼らは仲間を連れ贈り物の飾りを持って、生者の村(彼らの父が首長となっている村)を訪ねた。歓迎されるが、ボロゴの父ボコドリに、身に着けている飾りを全てよこせと要求され、そして飾りをたくさん持って来た者は殺されず、少ししか持って来なかった者は殺されてしまった。


ボロロ族コミュニティーの成り立ちに関する部分が多いが、そこには触れないので興味ある方は元本を読んでほしい。

この前半部分が白土作品『ボロロ』の原作である。白土作品『ボロロ』では白土独自の構成で妻と子が交わる。これは限られた紙数、登場人物の数を必要最低限に絞った上で、物語を破綻させない最良の表現になっている。ボロロ族の仕組みでは母と子は同じ半族であり、ここには兄弟と交わる場合と全く同じタブーが存在する。しかも息子を夫と勘違いさせる部分に神話らしい表現を巧く紛れ込ませることに成功している。息子を捜す妻が、原話では逆に母を捜す息子であるのだが、それに対する男の行動に違いをもたさずとも済んでいる。独自の解釈を組み込んでも、ボロロ族の世界感を壊さず巧く作品にしている。

鳥になった息子(白土作品では妻)と、木の生えた男。そこから流れ出す水。レヴィ・ストロースによれば、これは天と地が分離し、直後に水が生まれたことを表している。一番高い上空を支配するものとして「鳥」が一番わかりやすく、そこから落ちるフンも、植物の種を含んでいるのでわかりやすく地を躍動させる。水は地をさまよい、蒸発して天と地を繋ぎまた一つにする。

ではなぜ人から木が生えたのか。鳥の落とすものと、それに含有する種、木を生やすことにとって男を地面に押し付け「地」とする意はよく考え込まれた構図だが、私が求めているのは、彼らがなぜ、人から木を生やそうという考えに至ったかというところの答えである。その答えを今も白土と共に探っている。

※作中コマより:木の重みに倒れた男から溢れ出る水

これとは関係無いが、面白いのは参考資料『アメリカ・インディアンの民話』と『神話の構造』が共に訳者の似たような言葉で締めくくられている点。皆河宗一は「さらにまた注目すべきもう一つのことは、彼らの民話とわが国の神話とのいちじるしい類似点である」と書き、吉田敦彦は「ブラジル原住民の神話と日本神話の間に、死と火と性、農耕、文化などの起源譚に関し、大幅な論理の一致が見られ(る)」と書いている。世界中で語られる神話。これが個ではなく、人間生物としての精神をつかさどる内部の物理的構造に起因するものだと仮定するならば、この研究が進むことで人間の本当の精神構造の解明、もしかしたら人間だけではなく生物全てが内包する「求め行き着こうとしているところ」の解明の日が来るのかもしれない。しかしそれはわからないし、まだ遠い。