白土三平について戻る
Profile
漫画家 : 白土 三平 (しらと さんぺい)
本名 : 岡本 登 (おかもと のぼる)
誕生日 : 1932年(昭和7年)2月15日(現年齢 83歳)
デビュー : 1957年8月(25歳時)、デビュー作品「こがらし剣士」
代表作品 : 「カムイ伝」「カムイ外伝」「忍者武芸帳」「サスケ」「赤目」
漫画作品数 : 約150
最新作品 : 「カムイ外伝 [再会]」 (2009年)
現在 : 「カムイ伝第三部」を構想執筆中 (発表時期未定)
経歴 - 出生からデビューまで
現在の東京都杉並区に出まれる。血液型はA型。幼少時は父である岡本唐貴の美術活動により各地を転々とする。1933年8月に東京都杉並区西荻窪で弟の鉄二が、1935年には大阪で弟の真が生まれる。

1938年(6歳)、大阪から東京に戻り、父が板橋区練馬(現練馬区)に画室を立てる。 1944年3月、開進第二国民学校(現練馬区桜台の開進第二小学校)を卒業し、私立練真中学校(旧制、現在廃校)に入学する。 その夏、戦争が激しくなったため長野県小県郡中塩田村(現上田市八木沢)に一家で疎開、旧制上田中学校(現上田高校)に一旦転入する。冬、長村横尾(現上田市真田)に転居する。 1945年2月、妹の颯子が生まれる。8月終戦、白土と鉄二の2人を残し一家は先に東京に戻る。翌年2月、2人も東京に戻る。

1946年(14歳)、練真中学校を3年で中退する。以降、英語学校に通うも、映画館に入り浸る日々を続ける。1947年8月に板橋区の一部分離で練馬区が発足する。1950年5月まで中野駅前の入歯工場で仕上工として勤める。 その後、父の絵描き仲間である金野新一(矢部友衛の弟子)のアトリエで、金野の友人の山川惣治による街頭紙芝居を量産するため、彩色・模写の仕事手伝いを始める。 英語学校、入歯工場、山川の手伝い、これらにおいて白土はつねに鉄二と行動を共にしていた。

1951年(19歳)、金野の指導で描き上げたギャグ紙芝居「ミスタートモチャン」(ノボル名義)を金野の紹介で紙芝居製作所「ともだち会」に売り込み、成功する。 以降三年間、ほぼ毎日この作品のシリーズを描き続けることになる。 弟の鉄二は「なかよし会」で大型紙芝居の彩色を中心に仕事することになった。

1952年(20歳)、5月1日の「血のメーデー」に参加する。

1955年(23歳)、紙芝居仲間の紹介により葛飾区金町の平屋で瀬川拓男・曽根喜一・星野芳夫と共同生活を始める。 この家は瀬川が先年松谷みよ子と暮らすために借りたものだが、1954年末に松谷が入院したことで、男4人が暮らすことになった。 ここではお互いをあだ名で呼び合い、自身はモヤシの三ちゃん(これは「ヤネウラ3ちゃん」からであろうか)、通称「三平」と呼ばれるようになる。 これにかつて長野にて出征した青年将校の「白土」姓を借り、「白土三平」に筆名を変える。 10月、この共同生活に退院した松谷(11月に瀬川と結婚する)と、人形劇をやるために大阪から上京していた小林まゆみが加わる。 12月、NHKの動く絵ばなし「どじ丸物語」(28日と29日に放映)をきっかけに、瀬川が劇団「太郎座」を立ち上げる。 ここから白土は紙芝居仕事の合間、劇のための舞台背景なども描きはじめる。

1956年(24歳)、一般テレビの普及(テレビ放送開始は1953年)により紙芝居は衰退していき、加太こうじの紹介で機関誌「子供を守る」の1956年1月号から次年1月号に4コマ漫画「まもるチャン」を全11回連載する。 夏ごろに金町の平屋を離れ、そこに出入りしていた紙芝居仲間の牧かずまと暮らし始める。 この時点で白土は太郎座を抜けるが、太郎座の活動は1970年まで約15年間続いた。 その後板橋区に転居し、紙芝居の手伝いをさせていた小林まゆみ(李春子)と結婚する。

1957年(25歳)、5月頃に日暮里の団子坂で偶然再会した牧に漫画を描く事を勧められ、消滅しかかっている紙芝居仕事の合間、牧のアシスタントとして少女漫画を描き始める。 8月、巴出版株式会社から貸本漫画単行本(貸本)「こがらし剣士」を発行。
経歴 - 第一次ブームと飛躍
1957年11月頃、長井勝一のもとに牧の紹介で原稿を売込みに行く。長井はその前年に神田神保町で貸本出版社「日本漫画社」を立ち上げていた。 白土はこの日本漫画社から19冊の貸本を発行することになる。 長男誕生の直後であり生活の貧しかった白土は、すぐに原稿料がもらえる貸本に多く描いた。 当時、雑誌に描くと貸本の2倍以上の原稿料を手にすることができたが、雑誌は原稿料が後払いだったのである。この頃、作品制作に弟の鉄二が加わる。 1958年夏頃まで白土は牧の手伝いも続けていた。 1958年9月末、日本で初めて公式に名前の付いた狩野川台風が押し寄せたことで、白土は石神井川の氾濫による床上浸水の被害を受けている。

1959年夏、長井が浅草でバーを始めるために日本漫画社を突然たたむ。 しかたなく長井の紹介により東邦漫画出版社(東江堂)にて貸本「忍者旋風」「忍者人別帳」などを発行していくことになるが、ここは原稿料支払いの遅れることが多かった。 バーを違法建築により半年でやめた長井は小出英男と夜久勉との3人で三洋社を設立する。 小出と夜久は貸本漫画には疎かったが、長井が白土と親密ということを聞き、2人で200万円ずつ出資し経営、長井のみが編集実務に携わった。 12月に白土はそこから貸本「忍者武芸帳」の第1巻目を発行する。これは自由で革新的な作品であり、読者が飛びつく内容になった。 それでもまだ質屋通いや、借金に追われる日々が続く。 「忍者武芸帳」は2ヶ月に1冊ずつ刊行を続け、1960年6月に発行した第4巻のキスシーンはPTAなどの反感を買い追い詰められたりもするが、このことがより少年読者の人気を押し上げた。

1960年7月、大手がその人気を聞きつけ、初の週刊誌連載作品「風の石丸」を始める。ここで第一次白土ブームとなる。 当時28歳の白土は、練馬区のアパート双葉荘で鉄二ともう一人の助手と共に仕事をし、貸本の原稿料は1枚500円から700円、1ヶ月に大体250頁もの1冊を仕上げている。 週刊誌連載のストーリーは昔描いたもの(貸本「甲賀武芸帳」全8巻中第4巻まで)を利用し、原稿料は一枚1800円で、1週間に22頁描いていた。 それでも毎日徹夜が続く。 この月、週刊誌の初のインタビューに「ぼくが漫画を描いているということが、父の名誉にかかわるので、父の名前はどうしてもいえない」と答え、同時に洋画家になる夢も持ち続けている。 この父に触れてほしくないという心理はこれより少し前の白土初のインタビュー記事への反応にもあらわれており、漫画は低俗という当時の一般認識からこれを恥じていたのだろう。

1961年3月に長井が結核で入院する。そのため、以降は岩崎稔と松坂邦義の2人が編集実務を引き継いだ。 夏、月刊誌「少年」に「サスケ」の連載を開始する。これは「少年」編集部にいた桑田裕の理解によるところが大きい。 掲載の条件として、白土が譲る形となったのは手塚治虫の「鉄腕アトム」に少し画風を似せることだったようだが、この作品は白土の知名度をまた大きく上げた。 三洋社業務に関わらなくなった長井は、1962年1月に手術(手術代は白土が肩代わりする)を受け、千葉県勝浦市の療養所に転院、入院しながら青林堂を設立する。 7月、ここから連載「サスケ」をまとめた貸本「サスケ」を刊行開始する。 長井のいなくなった三洋社は経営がうまくいかなくなっており、「忍者武芸帳」の最終2冊は倉庫を同じくしていた東邦漫画出版社からの発行となった。
経歴 - 雑誌を創る
1963年、「シートン動物記」と「サスケ」が第4回講談社児童まんが賞を受賞する。 しかし、白土はそのまま順風満帆とはいかないだろうことを感じていた。 大手出版社の雑誌に連載する作品が、ことごとくその内容を理由に打ち切られてきた経験をもつからだ。 白土は締め切りは必ず守り、作品末に必ず日付を入れることを言い出したのは有名だが、自身ではどうにもならないことがあった。 それは原稿が返ってこないのが漫画世界では当たり前だったことと、作品が再掲載されても稿料の支払われない場合が多かったことだ。 この状況を打破するために、力関係上早く制作体制を会社組織にする必要があった。 貸本の世界も週刊誌の台頭で衰退を極めており、決断を迫られていた。

1964年、6月放映開始のテレビアニメーション「少年忍者 風のフジ丸」に作品「忍者旋風」のストーリーを提供する。 同時期に作品制作の体制を法人化し、株式会社「赤目プロダクション」(赤目プロ)を創立する。 そして7月、入院中の長井の協力で青林堂から雑誌「月刊漫画ガロ」(ガロ)9月創刊号を発売。 創刊号には、白土夫人である李春子が文を書き妹の颯子が挿絵を画いた小説や、作品「シートン動物記」原作者の内山賢次に依頼した物語の掲載、 貸本作家からはアシスタントの小島剛夕が変名で参加、そして水木しげるを雑誌デビューさせている。 水木においては、先の漫画賞受賞者の権限で推薦し同じ賞を受賞させ、水木の知名度を上げるきっかけともしている。 つまり白土は自分で雑誌を作ることで、剛夕・水木・つげ義春など時代とともに消えていくには惜しいと感じた貸本漫画家を救っている。

ガロは初期半年間まったく売れず、白土は創始者のために原稿料も約3年間出なかった。 そのため複数の雑誌社に連載をもつことでなんとか採算をとることになる。 それが集英社の「真田剣流」(1964年9月-)、講談社の「ワタリ」(1965年4月-)、小学館の「カムイ外伝」(1965年5月-)などである。 1964年末、白土は入院中の長井との打ち合わせの延長で勝浦の旅館に宿泊。このとき、勝浦市興津から夷隅川上流まで延々歩き、偶然大多喜の旅館「寿恵比楼(すえひろ)」を発見する。 複数連載の多忙による睡眠不足や精神的圧迫感から体調を崩した白土はその療養も兼ね、たびたび家族で、または赤目プロのメンバーたちでこの旅館に泊まるようになる。 1965年7月には貸本「サスケ」と貸本「忍法秘話」の刊行を掲載作品未完のまま中止する。 1965年10月、この旅館につげ義春を連れて行き、10日間ほど泊まる。それを機につげの作風が大きく変わっている。 ここでは作品制作の合間、釣り・木登り・きのこ狩りなどをするが、白土はこれをこの旅館に泊まる最後にした。
経歴 - 第一次産業界からの実験
1966年末、内房の富津市湊、湊川下流の漁師の家の二階を借りて通い住むようになる。 この時期白土は「サンデー毎日」1967年1月1日号の特集「"いい感じ"の日本人」で芸能人や著名人を抑え第一位になるなどしている。 その後、そこから少し南下した場所に空家を見つけ移り住む。 住居は千葉に置いたが、練馬の赤目プロ事務所はそのまま継続して使用し続けた。 白土は千葉に移り海を知り、磯遊びから陸釣り、そして沖釣りへと近所の漁師に付いて勉強するようになる。そのようにして現在まで5度、千葉での居を移している。 1967年4月、ガロ連載作品「カムイ伝」単行本を小学館から発売開始する。

1971年7月、「カムイ伝」の連載を終了。それとともにガロは売れなくなったが、2年後の「カムイ伝」再開予定のために長井は刊行を続ける。 しかし白土は「書くタイミングをのがした」と言い、結局ガロ誌上での「カムイ伝」の再開はならなかった。

1975年、小学館の隔週刊誌「ビッグコミック」に神話伝説シリーズの連載を始める。 白土が「実験的な作品だった」と回想するように、これは過去白土が挑戦してきた専門的研究に耐えられるような解釈を、文字と描写一体として表現しようと実験したもので、 小説ほど視覚表現を排除しない、絵画のように解釈をほかに委ねきらない紙上による総合表現媒体の確立を訴えたものだった。 また漫画でありながら「子供」の視点を完全に排除する作風への変化でもあった。

続けて1981年からは女星シリーズ、1982年からは「カムイ外伝 第二部」を連載する。 1983年からは「白土三平フィールド・ノート」という写真エッセイの連載を始める。 これは自身の生の猟師町での経験をそのまま綴っている。 1987年に「カムイ外伝 第二部」の連載を終了し、1988年にそのエッセイの連載を終了した直後、ついにライフワークである「カムイ伝 第二部」の連載を開始する。 この時、第一部の終了から17年が経過していた。 2000年にこの作品も連載終了し、白土は「カムイ伝 第三部」の構想に取り掛かっている。
主な資料
※「漫画家人名事典」まんがseek著・編集部著(2003年2月25日発行/日外アソシエーツ) :血液型
※「岡本唐貴自傳的回想画集 岡本唐貴自選画集」岡本唐貴(1983年発行/東峰書房) :鉄二・真の出生記述
※「週刊アサヒ芸能」1960年8月14日号(マスコミの知らないベスト・セラー/アサヒ芸能出版) :1938年-1946年頃、1960年の記述
※「ビッグコミック」2007年1月25日号-3月10日号(「カムイ伝」の原風景をいく長野編/毛利甚八) :1944年-1945年頃の記述
※「カムイ伝全集」第7巻(「白土伝4」(毛利甚八)/2006年2月1日発行/小学館) :1946年-1955年頃の記述
※「完全復元版忍者武芸張」」第1巻(「白土三平研究」内、加太こうじ寄稿/1970年4月25日発行/小学館) :1951年-1956年頃の記述
※「週刊朝日」2007年2月2日号(自伝「じょうちゃん」第22回(松谷みよ子)/朝日新聞社) :1955年頃の記述
※「白土三平論」四方田犬彦(2004年2月27日発行/作品社) :筆名「三平」の由来
※「カムイ伝全集」第3巻(「白土伝2」(毛利甚八)/2005年12月1日発行/小学館) :筆名「白土」の由来
※「月刊漫画ガロ」1994年9月号(対談:白土三平×長井勝一/1994年9月1日発行/青林堂) :牧との出会い、長井との出会い
※「「ガロ」編集長」 長井勝一(1982年4月25日発行/筑摩書房) :鉄二の手伝い始め時期など長井期全般
※忍風カムイ外伝ファンクラブ会誌「疾風」第3号(鷺巣政安インタビュー/1977年4月9日発行) :「サスケ」連載経緯
※文春文庫ビジュアル版「幻の貸本マンガ大全集」(1987年3月10日発行/文藝春秋社) :作品末日付について記述
※「少年漫画劇場」第8巻(長井勝一による寄稿/1971年8月5日発行/筑摩書房) :白土が締め切りを必ず守る記述
※「ラピタ」1995年冬号-1999年3月号(「白土三平の好奇心」/1994年12月20日-1999年3月1日発行/小学館) :千葉期全般
※「つげ義春を旅する」高野慎三(1998年「つげ義春幻想紀行」ほるぷ出版の再録/2001年4月10日発行/筑摩書房) :大多喜の旅館について
※「貸本マンガ史研究」第3号(香田明子氏インタビュー/2000年12月15日発行/貸本マンガ史研究会) :三洋社時期記述
※「貸本マンガ史研究」第5号(松坂邦義インタビュー/2001年6月23日発行/貸本マンガ史研究会) :東邦漫画出版社=東江堂記述
※「ビッグコミック」2003年10月10日号(創刊1000号) :神話伝説シリーズに対する「実験的な作品だった」発言
年齢表
1932年(昭和7年)2月15日(月) : 出生
1933年(昭和8年)2月15日(水) : 1歳
1934年(昭和9年)2月15日(木) : 2歳
1935年(昭和10年)2月15日(金) : 3歳
1936年(昭和11年)2月15日(土) : 4歳
1937年(昭和12年)2月15日(月) : 5歳
1938年(昭和13年)2月15日(火) : 6歳
1939年(昭和14年)2月15日(水) : 7歳

1940年(昭和15年)2月15日(木) : 8歳
1941年(昭和16年)2月15日(土) : 9歳
1942年(昭和17年)2月15日(日) : 10歳
1943年(昭和18年)2月15日(月) : 11歳
1944年(昭和19年)2月15日(火) : 12歳
1945年(昭和20年)2月15日(木) : 13歳
1946年(昭和21年)2月15日(金) : 14歳
1947年(昭和22年)2月15日(土) : 15歳
1948年(昭和23年)2月15日(日) : 16歳
1949年(昭和24年)2月15日(火) : 17歳

1950年(昭和25年)2月15日(水) : 18歳
1951年(昭和26年)2月15日(木) : 19歳
1952年(昭和27年)2月15日(金) : 20歳
1953年(昭和28年)2月15日(日) : 21歳
1954年(昭和29年)2月15日(月) : 22歳
1955年(昭和30年)2月15日(火) : 23歳
1956年(昭和31年)2月15日(水) : 24歳
1957年(昭和32年)2月15日(金) : 25歳
1958年(昭和33年)2月15日(土) : 26歳
1959年(昭和34年)2月15日(日) : 27歳

1960年(昭和35年)2月15日(月) : 28歳
1961年(昭和36年)2月15日(水) : 29歳
1962年(昭和37年)2月15日(木) : 30歳
1963年(昭和38年)2月15日(金) : 31歳
1964年(昭和39年)2月15日(土) : 32歳
1965年(昭和40年)2月15日(月) : 33歳
1966年(昭和41年)2月15日(火) : 34歳
1967年(昭和42年)2月15日(水) : 35歳
1968年(昭和43年)2月15日(木) : 36歳
1969年(昭和44年)2月15日(土) : 37歳

1970年(昭和45年)2月15日(日) : 38歳
1971年(昭和46年)2月15日(月) : 39歳
1972年(昭和47年)2月15日(火) : 40歳
1973年(昭和48年)2月15日(木) : 41歳
1974年(昭和49年)2月15日(金) : 42歳
1975年(昭和50年)2月15日(土) : 43歳
1976年(昭和51年)2月15日(日) : 44歳
1977年(昭和52年)2月15日(火) : 45歳
1978年(昭和53年)2月15日(水) : 46歳
1979年(昭和54年)2月15日(木) : 47歳

1980年(昭和55年)2月15日(金) : 48歳
1981年(昭和56年)2月15日(日) : 49歳
1982年(昭和57年)2月15日(月) : 50歳
1983年(昭和58年)2月15日(火) : 51歳
1984年(昭和59年)2月15日(水) : 52歳
1985年(昭和60年)2月15日(金) : 53歳
1986年(昭和61年)2月15日(土) : 54歳
1987年(昭和62年)2月15日(日) : 55歳
1988年(昭和63年)2月15日(月) : 56歳
1989年(平成元年)2月15日(水) : 57歳 ※1989年1月7日までは昭和64年

1990年(平成2年)2月15日(木) : 58歳
1991年(平成3年)2月15日(金) : 59歳
1992年(平成4年)2月15日(土) : 60歳
1993年(平成5年)2月15日(月) : 61歳
1994年(平成6年)2月15日(火) : 62歳
1995年(平成7年)2月15日(水) : 63歳
1996年(平成8年)2月15日(木) : 64歳
1997年(平成9年)2月15日(土) : 65歳
1998年(平成10年)2月15日(日) : 66歳
1999年(平成11年)2月15日(月) : 67歳

2000年(平成12年)2月15日(火) : 68歳
2001年(平成13年)2月15日(木) : 69歳
2002年(平成14年)2月15日(金) : 70歳
2003年(平成15年)2月15日(土) : 71歳
2004年(平成16年)2月15日(日) : 72歳
2005年(平成17年)2月15日(火) : 73歳
2006年(平成18年)2月15日(水) : 74歳
2007年(平成19年)2月15日(木) : 75歳
2008年(平成20年)2月15日(金) : 76歳
2009年(平成21年)2月15日(日) : 77歳

2010年(平成22年)2月15日(月) : 78歳
2011年(平成23年)2月15日(火) : 79歳
2012年(平成24年)2月15日(水) : 80歳
2013年(平成25年)2月15日(金) : 81歳
2014年(平成26年)2月15日(土) : 82歳
2015年(平成27年)2月15日(日) : 83歳
2016年(平成28年)2月15日(月) : 84歳
2017年(平成29年)2月15日(水) : 85歳

※1955年秋頃、太郎座創立メンバー(右下に23歳の白土):単行本「戦後人形劇史の証言」(1982年4月19日発行)/一声社
※1964年当時、32歳の白土三平近影:雑誌「アサヒグラフ」1967年11月24日号/朝日新聞社 ※発表は1967年だが、撮影は1964年
※1967年当時の長井勝一近影:雑誌「コミック・ボックス」1996年5月号/ふゅーじょんぷろだくと
※1994年当時、62歳の白土三平近影:雑誌「月刊漫画ガロ」1994年9月号/青林堂