小学館豪華愛蔵版 白土寄稿
カムイ伝 第1巻(初版1982年9月10日) 月報1内
白土三平インタビュー =『カムイ伝』の世界=  白土 三平

 「土」と「風」というあり方に、私は長くとらわれてきました。
 「土」は、たとえば種を育て、そしてそれを育成していくのに反して、「風」は単に吹き渡っていくに過ぎないようにも思われるが、花を散らしたり、胞子や種を運んだりする。
 いわば、動かないで、ものを生みだしていく土と、とどまることなく、それ自体、非生産的であり続ける風となのです。
 たとえば正助は、土という視点から、幕藩体制のはばんでいる不合理性(というようないい方は好きではないが)を打破して、合理性を確立しようとする。
 一方、カムイは(拙作『カムイ外伝』では、彼は抜忍という逃亡者になってしまう)真犯人をつかまえたとき解き放たれる、えん罪による逃亡者(昔のテレビ映画『逃亡者』の主人公のような)とは異なる、絶望的な逃亡者である。
 とどまったとき、死を迎える彼は、他に目を向け、他の解放と関わるところで足跡を残すことができる。
 おのれの解放を、いかに追い求めてみたところで、彼にとって本当の終わりはないわけなんですよ。
 つまり、定住するものと、絶えず居を変えて渡っていきながら、定着するものに刺激を与えときに不幸を惹起するアウトサイダー。比喩的にいえば、合理的なものと非合理的なものとの触媒が風だといえましょう。
 人は、なにかを求めることによって、さらにいっそう、失わざるをえない存在です。
 そして、そのそれぞれの営為に際して、生起される悲喜劇――そこに、私の関心は、つねに向かっていってしまうのです。(文責=編集部)
近影写真の初出については「画集カムイ伝」の項を参照。
忍者武芸帳 第2巻(初版1983年8月5日) 月報2内
『忍者武芸帳』書き始めの頃…  白土 三平

 今おもえば、私がコミック界へ入ったきっかけは、じつに気まぐれなものであった。
 当時、油絵かきの卵のつもりでいた私は、紙芝居の絵を描いて経済的基盤を保ちながら、それらしく下町を移りくらしていた。
 ところが、結婚をする少し前あたりから、紙芝居の世界が急速に没落をはじめたのである。
 大衆芸術評論家で、当時、紙芝居界の親分だった加太こうじ氏が、変わった仕事を探してきた。その頃は町かどに広告塔なるものが立っていて、その上部の四方に広告の絵をはめこみ、電気仕掛けで時間的に次の絵と入れかわり、女性のアナウンスで、商品・商店の宣伝をするものである。今のテレビ・コマーシャルのはしりといっていい。加太氏は、立場上、この電気紙芝居と称される世界に紙芝居をささえていく活路を求めたのかもしれない。その広告紙芝居や警察の防犯紙芝居の絵の製作を手伝ったりしながら、その場しのぎをしていたのだが、いよいよ古くからの貸元(紙芝居製作業者)までがバタバタとつぶれはじめ、画料も半分ほどに下がってしまった。それでも若かったせいかいざとなれば何だってやればいいんだからと、しごくのんきにかまえていた。
 そんな頃、たまたま日暮里の団子坂で、かつてアパートの家賃を半分ずつだしあって共同生活をしたことのある友人Mと再会したのである。もともと、彼と知り合ったきっかけも全くの偶然で、そば屋だったか風呂屋で声をかけ合ったのがはじまりで、全くの赤の他人どうしが突如、共同生活をはじめたのである。当時の下町では、そのようなことは多々あったのである。
 当時は幼稚園の絵の教師をしていた彼が、マンガ家になっていたのである。マンガ家というよりは、マンガを描いて生計を立てていたというのが当たっていた。そんなきっかけから、少なくなった紙芝居の仕事の合間に、彼の仕事を手伝うようになった。
 マンガといっても、当時は、単行本といって小型の一三〇頁ほどの本で、原稿料が一枚一五〇円くらいだったと記憶している。一冊を完成していては生活していけないので、何頁かたまると版元へもっていって画料をもらい、山分けをしていたようなわけである。したがって、いちばんかんじんなのは、仕事がきれぬように次の仕事を確保することである。それには、彼の奥さんが力を発揮したのである。女性の作家のほうが仕事が取りやすかったのであろうが、当然の結果として、女性作家のペンネームということになる。
 ほどなくして、その彼が、雑誌の少女マンガ家として売り出したのである。(もちろん、その頃は、彼自身のペンネームになっているのだが)
 新しい仕事場をもち、私も本格的に彼のところへつめるようになるのである。彼に勇気があったのか、徹夜と締切にたえかねたのか、私に下絵を全てとらせたのである。当然、ストーリーも私のおもいつくままに自由にまかせられたのである。台所の次の間に私が隠れ、一枚仕上げるごとにフスマの間から、彼の背と壁の間へさし込むのである。すると彼がそれをおもむろに取り上げ、ペンを入れていくのである。つめていた編集者の目の前の出来事なのだが、全く気づかなかったのである。
 しかし、影武者の存在ははかないもので、いつか編集部でも作品内容の変貌におどろき、彼は編集者からきびしい追及をうけたのである。「僕のストーリーより面白い」などと言っていた彼も、自身では想いつきもしない物語の展開に責任を取らされ、困惑の極に追いこまれていたようだった。
 つまり、少女マンガの主人公の取るべき行動パターンからあまりにもはずれているということなのだが、当時の少女マンガというものに対する編集者の既成概念は古く、しかも、マンガ家自体の存在、発言力が希薄だったためもあって、表現上の自由の幅は、あまりにもせまかったのである。
 まもなく、若いアシスタント達が登場し、「君なら何処へいっても一人前だよ」とはげまされ、一軒の小さな版元(単行本)を紹介され、そこから私のマンガ家への自立の道がはじまるのである。が、経済的な問題は生活の一部と考えていた私には、そのまま影武者でもよかったし、別のきっかけがあれば、当然、別の道を歩いていたことだろう。
 ところが、三年後、『影丸伝』を描きはじめる頃には、この世界にどっぷりと入りこんでしまっていたのである。
一九八三年五月 (筆者)
近影写真2枚とともに掲載。ナマズのイラストもあるが、これは「忍者武芸帳」岩魚内コマのもの。 友人Mとは牧かずまのことである。 レアミクスコミックス「復刻版 忍者武芸帳」第5巻に再録。
※全て原文のままであり、誤字・脱字などもそのままにしている。