カムイ外伝第二部
「スガルの島」について

※単行本『大物釣り』永田一脩(1961年9月30日発行/文藝春秋新社/400円/全267頁)

永田一脩(1903年-1988年)は岡本唐貴と同じ年に生まれたプロレタリア美術の画家、写真家である。永田の著書『大物釣り』から、角奇談の一つを引用する。

小田原の大久保藩の「お馬まわり」に「どっこい一次郎」というものがいた。或る日海岸の波打ちぎわに立ち込んで馬を洗っていたら、何か足に軽くぶつかるものがあるので、のぞいて見たら、波打ちぎわに魚が群れている。よく観察してみると、その魚の群れは馬の爪をめがけて集まって来て、馬の爪をつついているのに気がついた。そこで一次郎は、「ハハー。これは馬の爪で擬餌鉤を作ったら、きっと魚が釣れるに違いない。」と思い付いた。思い出したらジッとしてはいられなくなり、ついに或る夜ひそかに夜陰に乗じて馬を殺し、その爪を取って角を作った。そして、その角を使って釣りをしたら、魚が飛び付いて来て大変な大釣りをした。
馬が殺されたことと、馬の爪で大釣りをしたのが一次郎だということが明らかになって、馬殺しの犯人として、「どっこい一次郎」は、ついにお手打となってしまった、という。

この話を私は小田原市山王町の角屋・浅見嘉蔵から聞いた。嘉蔵は亡父から聞いた話だといって聞かせてくれたのだが、その嘉蔵も今は故人となってしまっている。以上の話だけではその角がどんな形で、どんな釣り方で、何んの魚を釣ったのかはまったくわからない。第一、それは実話だとは思えないので、小田原角の起源にまつわる伝説だと思うより仕方がない。ちなみに小田原市山王町の浅見家は角屋としては三代続いた家がらで、現在では故嘉蔵さんの娘婿が三代目として角を作っている。

※永田一脩筆 : 『大物釣り』P227-P228より

これは神奈川県小田原(酒匂川河口付近)に『小田原角』として伝わる話である。この伝説の発祥についての詳細は不明だが、千葉県の漁村に身を置いていた白土はたまたまこの話に触れ、 1969年のテレビアニメ「忍風カムイ外伝」第21話から第26話の原作(詳細)と、1982年の『カムイ外伝 第二部』スガルの島編(連載詳細)にこれを取り入れた。 単行本『大物釣り』は『大もの釣り』(1995年6月10日発行/つり人社)というタイトルで再刊行されている。

次に月刊誌『ラピタ』1999年3月号に掲載された白土三平の好奇心第38回「夜光貝」(最終回、単行本未収録)より、漁師の「角」への気持ちがうかがえる部分と、夜光貝から「角」を作る様子を下に一部紹介する。

シケの日に、引き角漁師たちが己の擬似鉤箱(たからばこ)を持ち出し、自慢の擬似鉤を酒の肴に見せ合うのどかな光景もある。かと思うと、まれにだが一本の角から擬似鉤師(擬似鉤を専門にあつかう業者)間で血の雨が降ることもあった。人生には色々な事がある。

先ずダイヤモンド・カッターで殻を両断する。そこから、これはと言う部分をえらび、さらにカットをかさね、だいたいの型造りをするのに、ほぼ一日がかりである。昔、漁師たちはそれを鉄ノコと砥石で何日もかけてやった事であろう。それだけに擬似鉤に対する漁師の愛着は強い。しかもそれに依って己れの生業(なりわい)の道が大きく左右されるのである。

※白土三平筆 : 『ラピタ』1999年3月号P115、P117より抄出

擬餌鉤文化の歴史は長く、「角」の全国的な広がり、そして地域によっても異なる形態があった。しかしその秘密主義的文化から文献にも全ては紹介されず、今では人と共にどんどん消滅していっている。

白土作品「スガルの島」では、先ず馬の名前を一白(いちじろ)としている。これは馬を殺した一次郎(いちじろう)からの変化である。 そして殺害理由である利己的な欲を、当然の生活欲に置き換えている。 舞台は父・唐貴の故郷である岡山県(備中)、瀬戸内の弓ヶ浜・奇ヶ島・幸島である。 仲間を信じなければ生きられないという漁師。その妻となり生活している抜忍、赤目のスガル。「スガル」は蜂の別名であるので、彼女は千本(針)を使う。 馬殺しを遂行する人間は抜忍スガルと対照的な考え方を持つ彼女の夫である。

冒頭スガルが無抵抗に強姦される描写にスガルの悲哀、そして抜忍の悲哀が象徴される。 抜忍でも信じる喜びを得ることが出来る。渡り衆はそんな「夢」をもつ者達だったが、やはり無慈悲に崩される。 現実にまったく希望を持てない中抜忍の追いかける「夢」がどれほど大きいものか、不動に対するカムイの残酷な行動はそれを示している。 ラストは日々生きる喜びの描写、つまり抜忍の夢の描写で終わる。これを示すことで対比が生まれ、テーマを際立たせている。

対比ということでは、スガルと不動との戦いの描写はそのまま描かず自然界のキジを用いて描いている。必死の抵抗で片目を潰し追い払うが、毒に絶命する場面だ。 この部分は1969年のアニメでは、不動の目をえぐるスガルがそのまま描かれており(アニメ最終26話)、カムイにも死の直前「目をえぐってやった」と報告している。 漫画版の表現で「目をえぐった」ということを示すのは「自然界の描写」と不動が倒れるときに目から義眼がこぼれる部分のみなので、 アニメ未見の読者がこのカラクリに気付くことは難しい。スガルの「め……眼を……」という必死のメッセージも、カムイには毒による失明を訴えたものと理解されたことだろう。

カムイは作中偶然において二度命を救われている。その救世主は「オサガメ」(外部リンク)である。 オサガメの形体はほぼウミガメであるが、本種のみのオサガメ科で、ウミガメ科ではない。オサガメは産卵以外では上陸しない。 2002年6月末に、日本で初めての産卵が確認されている。よって驚くべきことに白土は記録としての自然だけを忠実に作品に取り入れているわけではなく、生態の可能性をもそこに描いている。 漁師の妻のスガルでさえ、出会うことの限りなくレアな亀であり、それ故(ウミガメのような亀甲模様のない)黒く軟式の甲羅に足を掛けてしまった、という場面であった。 また、オサガメ二回目の活躍、カムイはその腹に隠れ逃れるのだが、オサガメは世界最大の亀であり、大きさの誇張もそこには存在していなかった。ちなみにこの場面、アニメでは普通の亀が描かれている。 鮫を好んで喰らう人間達(渡り衆と不動)が皆、最期その鮫に喰われるというスッキリした構図もとても面白い。
「黒塚の風」」について

※「黒塚の風」より黒塚のお蝶と、カール・ドライヤー「裁かるるジャンヌ」の表情

この章は続く「変身の色」「剣風」の序章にもなっており、単体で完結した「スガルの島」に続き、「黒塚の風」「変身の色」「剣風」三つの章で完結の話になっている。

これは黒塚のお蝶という悪女に焦点を当てた作品で、そのキャラクタの魅力も然る事乍ら、彼女に目を付けられたカムイの心静かな行動がとても魅力的だ。常に心騒いでいる彼女との対比でもあるが、淡々としたカムイの「かわしかた」は、若く寡黙な男性読者の目にとてもカッコよく映る。このカムイの佇まいは前章「スガルの島」の傷心を引きずっているとみる事もできるが、外伝全体に横たわるカムイらしさ「風(かぜ)」を象徴するようでもある。

※「黒塚の風7」(「ビッグコミック」1983年3月25日号)より

※同上

下は凝縮されたコマ間の解説。



「黒塚の風」はその結末から黒塚の鬼女伝説を基にしているともとれるがよく判らず。なぜなら(もしそうであるなら)鬼女の本性がその逆の本体を呼び込むことからとても難解だからだ。
「剣風」について

※単行本『天地に夢想』第2巻(小島剛夕・佐々木守/1983年5月14日発行/双葉社/第10話から第19話を収録)、ビッグコミックス『カムイ外伝』第11-12巻表紙

1984年初頭に描かれた『カムイ外伝 第二部』剣風編のカムイが棒心から剣の心を教わる部分は、 1982年から1984年まで雑誌『週刊漫画アクション』(双葉社)に連載された作品『天地に夢想』(小島剛夕・佐々木守)の第16話「斬月剣胚珠」から第19話「水月の剣開眼」にかけての部分を資料としている。 作中の「水月の心」については、『天地に夢想』第3巻冒頭にその答えがある。この第3巻にはウツセや棒心のように「棒術」を使う者も登場する。

「水月の位」
 ・剣理第一 : 勢威の剣「不転の位」勢威をもって敵を圧倒する
 ・剣理第二 : 写の剣「水の位」水の如く巧まずして敵の心を写しとり読みとるなり
 ・剣理第三 : 移の剣「月の位」月があらゆる水に影を落とすが如く敵の虚実に応じ転位する

月影という実体に心とらわれず水のように月のように、「剣は影」はその間にあるものが剣(技)ということだろう。 「剣風」編のものは『天地に夢想』よりも、気付きまでの部分を凝縮(簡略化)し語っている。 『天地に夢想』を読んで初めて気が付くことだが、棒心は木の棒を動かして月影を両断したわけではない。月影の中心に棒を挿し込み停止させる、月影は水の流れで二つに割れ伸びているのだ。 補完し解説すると下のようになる。

「それは月影を斬ったにすぎん」 ←ここでカムイは「月影」と言い、そしてそれ故に棒心が「斬った」と受け止めている。
「そのとおり。影じゃよ」 ←棒心は月の「影」と言うことでカムイに気付かせ、水の流れによる変化ということをも気付かせる。

月影は乱れるけれども、棒を抜けばまた元の静止した月影に戻る。 水は月を写そうと思って月影を写しているわけではなく無心で月影を写している。 そして月も無心で自身の姿を無数の川・海など水に写している。 柳生は水のように相手を写しとって変化する剣。 自分が切先を少し動かすなど変化すると相手はそれを見て型を変える。 水だけではなく月の心をも得た時自分の勝機とすることが出来る。 もちろん月本体を斬ろうとするのは愚。 「ただ一つの月を斬る」とは「月の心になれ」ということだ。それと同時にカムイを水と月のように柳生と対峙させたい棒心の腹心をも含んでいる。

カムイの出した答えは、相手の想像以上に相手の心に写った自分を変化させ、虚をつく動作をすれば相手と対等に戦える、ということだろうか。カムイの代名詞である「風」のように変化して。 図式としては「水→柳生」「月影→剣」「月→カムイ」としている。 なので柳生二人との戦いでは、終盤月が陰り、雨が降る(水で満たされる)自然描写と、カムイの劣勢をリンクしている(同時に「水」であるウツセを起こすことにもなる)。 その自然状況(雨雲)を呼んだのが「風」なのにももしかしたら意味が含まれているのかもしれない。 本当は誰かが「月」で誰かが「水」と限定されはしないのだが、白土がこういう構図も追加で視野に入れ描いたかのように深読みできる。

最後にもう一つ、『天地に夢想』では「水に映るは月も日も同じ」、ということで水に写った太陽を混ぜても解説している。 ビッグコミックス『カムイ外伝』第11巻表紙画のカムイは小さな月と共にあるが、第12巻表紙画のカムイは太陽の中に入っている。これはその心の会得を表現したものなのかもしれない。