単発執筆文・発言関連
貸本「風魔」創刊号(1959年発行/東邦図書出版社)
白土三平先生評 今月の新人紹介第一回

新人とは思われないするどいタッチがまず目につく。こうしてのびのびとたのしんで描く絵は上達するのが早い!!あまりほめるより欠点を指摘するほうが、秋山君の為になるだろうから二、三注意しておこう。新人は何か新鮮なものが欲しい。秋山君の場合は何か新鮮さというものに欠けている。殺陣(たて)にしても何かくふうが欲しかった。主人公の顔ももうすこしの感がある。悪人はおもいきり悪人らしく描くことがマンガをおもしろくする。線はあまり切って描かないほうが良い。自分が読者に何かを感じさせる作品をつくる!いつも新しいものを創作すること!!人の真似をしないこと!!デッサン、つまり基本的な勉強をすること!!時代に遅れないこと!!秋山君の前途は明るい!!秋山君の成功の日を楽しみに待っている!!
1959年、白土作品「奇剣崩し」が発表された貸本単行本。この貸本の最後には秋山勇二16歳(デビュー前のジョージ秋山)の作品「嵐と忍者」(目次頁では写植ミスで「嵐の忍者」になっている)が作者写真入りで掲載された。これはその作品に対する白土の寸評。
「東京新聞」1964年4月9日木曜日付夕刊(中日新聞社) 8面
マンガ家自画他賛! 10 「妥協を排す孤高の理想家 忍者ものブームの源流」

「サスケ」「狼小僧」そしてなかんずく全十七冊の長編「忍者武芸帳・影丸伝」のヒットによって貸し本屋児童マンガのもっとも人気のある作家の一人になった、昭和七年生まれの新鋭である。もっとも、児童マンガの人気作者というと、手塚治虫にしろ横山光輝にしろたくさんの弟子を従えて派手な仕事と生活しているが、白土三平はいまのところ、金銭的にはさっぱりめぐまれていないようだ。それは彼が、せいぜい三、四千部印刷しただけで行き渡ってしまう貸し本屋専用の単行本の仕事を主にしていて収入の良い雑誌の連載はあまりしないからである。
単行本の出版社は小さいところばかりで、けんかしながらでも自由に書かせてくれるところをさがすことができる。ところが市販される児童雑誌はみんな大資本の出版社のものばかりで、安全性を考えて白土三平の型破りの行き方とは衝突しがちなのである。なにしろ白土マンガでは、途中で主人公がどこかへ消えちゃって別の人物が話を引き継いだり、正義の英雄たちが片っ端から見るも無残にやっつけられて死んじゃったりする。
そこに作者としては、社会と人生の真実をこめているわけだが、それじゃあこれまでの子どもマンガの常識に反しますヨ、と、編集者たちは苦情を申しこむことになる。しかし白土センセイは強情でけんかっ早い。そこでついつい金もうけとは縁が遠くなるわけだ。子どもマンガ、などと軽く見てはいけない。こういう孤高の理想家もいるのであり、妥協を排して作家の主張をとことん貫いた傑作もあるのである。
「忍者武芸帳」は戦国時代の日本中いたるところにまきおこる百姓一揆(いっき)の大ロマンで、影一族という一群の忍者が、次々と殺されながら全国をかけめぐって、百姓の闘いの組織に活躍する。全編にみなぎる反骨精神と残酷描写と悲愴美(ひそうび)は、これまでの子どもマンガには見られない調子の高いものだった。
おとなの世界では、忍者もののブームは映画「忍びの者」以来だが、子どもマンガの世界では、もう六年ぐらい前から流行になっていて、白土三平がその源流であった。チャンバラのマンガでヒットしたのは、それ以前に竹内つなよしの「赤胴鈴之助」があるが、白土三平も竹内つなよしも、ともにかつての街頭紙芝居の絵かき出身である。昔なつかしい紙芝居という大道芸能は、テレビの出現と完全に入れ替わりになって滅亡してしまったのだが、そういえば、白土三平の画風は、いわゆるマンガとはだいぶ違って、昔の紙芝居の時代ものの、荒々しいすご味のある調子を伝えているようであるし、もっとさかのぼれば、「少年倶楽部」の時代小説のさし絵の味もする。
無口な人物である。そしてたいそうなテレ屋である。子どものころの夢は動物学者になることだったそうで、シートンの「動物記」なんかが愛読書だった。荒野の一匹狼(おおかみ)のような男。わが道を行く男である。 (影丸)
「マンガ家自画他賛!」は「東京新聞」1964年3月27日金曜日付夕刊(8面)から始まった連載で、毎回当時を代表する漫画家が「他人を装い自分を褒める」文章を書き、似顔絵(つまり自画像)を添えたもの。 この記事は掲載の自画像を含めて「月刊漫画ガロ」創刊号・第2号、その返本を分解しまとめた忍法秘話別冊「白土三平傑作選集」に再収録された。 自画像を省いた記事部分だけは、冊子「ガロの世界」(1967年10月24日発行/青林堂)にも収録されている。 この連載の第1回目を書いたのは手塚治虫で、筆名を「アトム」としている。白土は同じように作品「忍者武芸帳」に登場するキャラクターの名前をとり「影丸」にした。

※掲載の自画像(冬毛・夏毛)
「日本読書新聞」1965年4月26日月曜日付(日本出版協会) 6面
われわれは発言する 特集ヴェトナム戦争 「加害者日本の責任 安保条約をだれが結んだか」

東京・白土三平
我々日本人はアメリカの無差別爆撃をわすれていない。まけるとわかっていた日本に原子爆弾をおとしたのは誰れか、まさかしらない人はあるまい。これが日本を民主国家にするために必要なことだったのか、自由というものは自国の国民が意志と力でかくとくするものだ。他人があたえてくれたものに自由はない。餌をもらってふとった豚が自由でないのと同じように。
今、日本はアメリカと一緒になって、自由のために闘っているヴェトナム人の戦士を殺すことに参加しているのである。安保条約によって、日本にある軍事基地はアメリカ軍のヴェトナム作戦の中継補給基地として使用され、LST日本人船員による武器輸送が行なわれている事実がこれをしめしている。とうぜん第三次大戦が起これば、日本人はその責任をとらねばならないだろう。水爆長距離ミサイルのある今日、第三次大戦がおこれば、人類が危機にひんすることは子供でも知っている。
日本にアメリカの基地をおいていることは家、家族の命ごと他人にただでかしてやっていることと同然。日本列島が一瞬にしてふっとんでも、アメリカにはアメリカ大陸がのこっているのだ。アメリカの自由とやらを守るために基地が必要なら、自分の国へもっていってもらいたい。
まさか現政府を心から信頼している日本人はいないだろう。税金物価を上げることにしか能がなく、民主的な議会政治はみうけられず、うそと汚職、権力的暴力のみが横行している。こんなものに期待をかける方がまちがいである。日本人の生活、生命を守るのは日本人の一人一人である。原子力戦争のスイッチがおされてからではまにあわない。
今や、いつ第三次大戦に転化しかねないヴェトナム戦争に全日本人が反対し、アメリカ軍の軍事活動そくじ停止のために行動を起こさなければならないときだ。
ゼネストを中心に、老人から子供に至るまで、連続的なデモをもふくめ、あらゆる新聞への投書、ホワイトハウスへ抗議文を送ることだ。そしてこの闘いは休みなくヴェトナムにおける戦争が終るまで続けなければならない。よく蜜蜂の巣を数倍もあるすずめ蜂がおそう。数匹以上のすずめ蜂によって蜜蜂を全滅させることができる。だが大きな巣をもった蜜蜂は団結し強敵の全身にかみつき団子のようになって、ついには侵略者をげきたいするといわれている。われわれは蜜蜂になろう。このためには、いかなる分裂もゆるされない。自民党に投票した者も共産党を選挙した者も、戦争がはじまれば一緒にしかも一瞬にして消えてしまうのだから。 (漫画家)
有名無名様々な人のヴェトナム戦争についての意見を載せた特集記事の一つ。ちくま文庫「つげ義春1968」(高野慎三)によると、この文章を白土に依頼したのは高野で、一度書き「過激すぎる」という周りの意見で再度書き直したものだという。 翌年の1966年9月、青林堂に入社した高野が再び白土を訪ねたところ、白土はアパートから一軒家に引っ越していたという。 高野は「月刊漫画ガロ」1966年11月号分からの「カムイ伝」原稿取り人も務め、1971年12月に青林堂を退社している(編集は1972年2月号までおこなう)。
「月刊漫画ガロ」1965年6月号(1965年6月1日発行/青林堂)
マンガを画こう! 〈新人の投稿を期待〉

いままで私は手紙等により、マンガ家志望の人々に反対してきた。それは、失敗すればマンガ家はツブシがきかないからである。だが、いまや世の中は、高度成長政策のヒズミから、中小企業の倒産、物価の上昇、と貧富の差はますます激しくなってきている。やがて失業者が激増し、求人難から求職難へと反転する過程で、とうぜん自由業への移行もまた激しくなるであろう。自由業がすなわちマンガ家ではもちろんないが、世の中の不満をマンガにたくして訴えてゆく必要性は、充分、存在する。いままでは、新人マンガ家誕生の空白時代といってよかった。この世界に新風をそそぐうえでも、また、既成のマンネリ・プロ作家に刺激を与える意味でも、そろそろ新人誕生による新陳代謝があってよい時期である。ひとりで似顔絵を画いていても、マンガ家には育たない。また、有名な作家に弟子入りをしても、マンガは上達しない。まず、独創的なストーリーをおのれの技法で臆せずに画きたてることである。
この雑誌「ガロ」を土台にして、新人マンガ家がぞくぞく誕生することを期待する。
まず、おのれの実験を発表してみなければ、おのれを知ることはできない。また他の者の実験は、他の者への刺激となるであろう。その実験と刺激の中でこそ、成長がある。そうした意味からも、既成雑誌には無いおのれの実験の場として、この「ガロ」を大いに利用していただきたい。
白土三平

投稿規定
1.おもしろいこと。
2.内容第一。(技術は実験、経験をとおして、おのずと進歩するものです)
3.30ページ以内。(1ページでもよい)
4.時代もの、現代もの、SF、コマ画、その他自由。
5.用紙=青林堂原稿用紙、又は、右の寸法による上質紙か画用紙。(コマ取りは自由)
6.必ずスミ1色(墨汁または製図用黒インキ使用)で画き、アミ(ウス色)はつけない。セリフなどの文字はエンピツでかくこと。
7.〆切は定めず、到着順に審査します。
8.審査=青林堂編集部、赤目プロ
9.誌上に発表された作品には、原稿料を支払います。
―〈原稿の寸法〉―
紙のタテ37センチ / 紙のヨコ25.7センチ / 外ワクのタテ27.3センチ / 外ワクのヨコ18.2センチ / (コマ間)6ミリ / (コマの割り方は自由)
初期の「月刊漫画ガロ」には、一部奥付や「目安箱」というコーナーなど、白土が自分で書いたものがある。これも白土自身が呼びかけたもの。
ホームラン・コミックス「噂の武士」つげ義春(1966年12月30日発行/東考社)
つげ義春とその作品 白土三平

漫画家のタイプにもいろいろある。スーパーマンタイプ、企業家タイプ、職人タイプ、学者タイプ、など挙げられるが、中でもつげ義春氏の場合は、最も芸術家タイプに属する作家ということができる。
氏の創作は、つねに゛自己を吐き出す"という主要な動機と、すぐれた作品だけがもつ一つの完全な世界を、きめ細く、しかも執擁に築きあげる芸術家意識とに支えられている
氏の作品のもつ透明さ、張りつめた美しさは、それ故のものに違いない。
しかし、一方、自己を吐き出し、また吐き出すことで創作を支えるという態度は、作家としては本来の態度であろうが、それなりの困難と危険が伴わずにはいない。自己を吐き出すことによって創作を支える姿勢そのものが、自身をますます苦しい立場に追いつめないはずはないし、その中での創作は、その作品価値の責任を、直接に自身の内面、責任として受けとめねばならない前傾姿勢いっぱいの飛翔であるからだ。
つまり、自己が素材を通じて作品世界の中でうまく昇華され、普遍性と完全さとをより充たすとき、それは真に大きな成功をみるが、逆に、作品が独りよがりに陥ったとき、そのことは、あるいは自身の内部の自己改革がなされなければならないかもしれない。
ともあれ、このような資質をもった漫画家は、今日のような時代には貴重な存在だ(生活人としての面からみると、それが同時に障碍(しょうがい)にもなることは、氏自身万々承知であろうが……)。
私を含めて、氏の作品に影響を受けて育った漫画家は数多い。今後も、新人はもちろん漫画界全体にも影響を与えずにはおかないようなすぐれた仕事を精力的に続けてくれるよう期待したい。
四十一年三月十二日
つげ義春の単行本への寄稿文。同単行本にあるつげによる前書き文も併せて下に載せる。

まえがき つげ義春

突然、新書判ブームが起り、ドッと旧作が放出された。良いマンガは何度でもくり返し読んでもらおうとの趣旨であるらしいが、一度売った原稿が二度のおつとめをしょうとは夢にも思わなかった。
今さら旧作をひっぱり出し恥の上塗りはしたくないのだが、労せずして金が入るという誘惑に理性を失ってしまったのだ。
したがって、本書に収めた五ツの短篇は、冷静な判断によって選ばれたものではない。たまたま手もとに原稿があったりしたからだ。
「古本と少女」 七年程前に描いたもので、絵は一度描き改めたものです。
部屋中本をつめ込み、そのわずかなスキ間に自分がはさまれていたらどんなに楽しいだろう。
「噂の武士」 40年8月号の雑誌「ガロ」に掲載したもので、当時の僕の心境を語ったものだと、ある同業者が云っていたが、その頃僕は、わりとのんびりした生活をしていた。
「不思議な手紙」 最も古いもので、たしか20才そこそこで描いたものだ。マンガ界ではミステリィブームだった。自分の生活もそれに近く、いつも狭い押入の中で仕事をしたり空想にふけっていたりした。
「西瓜酒」 酒の味はぜんぜんわからないが甘口のカクテルならちょっぴりは舐めることができる。もし西瓜酒なんかあったら女性に好のまれるのではないかしらん。「ガロ」40年9月。
「女忍」 忍者の中には僕と同性の゛柘植"某(なにがし)と名乗るのがたくさんいた。忍術の本場伊賀には柘植という地名もある。
僕の先祖は代々岐阜県の豪農で、地理的にも伊賀に近いので、案外忍者の血をうけ継いでいるのかもしれない。しかし忍術マンガを描くのは苦手だ。
つげ義春
「ビッグコミック」創刊号(1968年4月1日発行/小学館)
ビッグコミックの発展に期待したい。 白土三平
奥付の作者コメント。掲載の白土作品は「野犬」。

※掲載の自画像
「ビッグコミック」1972年5月25日号(小学館)
"冒険作の未熟さ"というのを、私は望む。小さく完成された傾向の作品が多い現在、特に見たい気がする………。 〈白土三平〉
第8回ビッグコミック賞審査員決定頁へのコメント。上の「ビッグコミック」創刊号のものと同じ自画像とともに掲載されている。 白土はビッグコミック賞の審査員を何回か務めた。今回第8回ビッグコミック賞の受賞作品発表は1972年8月10日号で、そこには各作品に対する審査員のコメントも掲載されている。
「週刊少年ジャンプ」1972年6月26日号(集英社)
白土三平
『クーソー部落』の高岡くんは、プロとみなしてよろしい。あとは場数をふむことだ。
加賀くんの『あなたがおとしたもの』。絵はNO.1。意図もわかるが、エピソード等の処理が混乱して、失敗作になってしまった。
第3回昭和47年度上期手塚賞発表頁掲載のコメント。白土は審査委員の一人だが、選考会には参加せず書面のみの回答。手塚賞初の入選作品である「ガラガラウマウマ」(中本繁)に対しての評はなく、佳作二作品に対してのみ書いてある。 「あなたがおとしたもの」(加賀ただし)は当号に掲載されているが、「クーソー部落」(高岡正夫)は「別冊少年ジャンプ」7月号に掲載された。 「あなたがおとしたもの」は両親が豚化する点で、白土の「人獣の宿」(1980年)や宮崎駿監督映画「千と千尋の神隠し」(2001年)に先んじている。
「COM(こむ)」1973年8月号(虫プロ商事)
毎日本を読んだり、資料を調べたりで、特別に変ったことは何もない。たまに旅行にでるが、国外へは行かず、もっぱら日本の国をいろいろと廻っている。近頃は気候もよくなってきたので、つりにでかけるのが楽しいこの頃だ。
白土三平
奥付の作者コメント。掲載の白土作品は「鬼」(再掲載)。
UNION BOOKS「ある青春の物語」原作・オストロフスキー / 画・小山春夫(1975年9月1日発行/近藤書店)
白土 三平 (劇画家)
今日劇画家多しといえどもこのように地味で真面目な作品を手がけようとする者が何人いるだろう。劇画をとおして重大な内容を読者に伝えようとする困難さは、はかり知れない。にも拘らず敢えて氏をこの作品に向わしめたものは氏の自然を愛するひたむきな心と農民出身である血のゆえんかも知れない。長い歴史の中で人々が血を流し育てて来たものを読者と共に共有しはばたこうとする氏の情熱がひしひしと感じられてならない。
小山春夫の単行本への寄稿文。
「ビッグゴールド No.1」(1978年6月8日発行/小学館)
私は、私の世界を描いた。ただそれだけです。 白土三平
奥付の作者コメント。掲載の白土作品は「ワタカ」。
「ビッグゴールド No.6」(1980年9月30日発行/小学館)
一枚の秘蔵写真 =コミック作家の原点= 白土三平

この写真は、確か『忍者武芸帳』を描き終えた頃ですから昭和38年頃のはずです。当時、東京練馬区の春日町の、双葉荘というアパートに住んでいました。そのアパートから出てくるところを撮したものです。一階の二部屋を住まい、二階の二部屋を仕事場にあてていました。この頃写真に凝っていて、台所を写真用の暗室に改造したのを覚えています。動物(モグラ、カエル)をよく撮ったものです。そろそろ『カムイ伝』を描きはじめた頃で、このアパートの前にちょっとした空き地があり、そこで作画用の立ち回りを研究したものでした。"変移抜刀霞切り"などはここで考案されたものです。右の海辺での写真は、『ワタリ』第2部を終わった頃、胃が悪くなり、千葉の竹岡に静養しにいったときのもの。『神話・伝説シリーズ』開始の2年前です。
アパート双葉荘での写真・海辺での写真とともに掲載。海辺写真の初出は「白土三平選集」第16巻(1970年)で、ロマンコミック自選全集「白土三平 スガル」(1978年)にも収録されている。掲載作品は白土原作・一ノ関圭画の「舞茸」

※掲載の記事写真
「ビッグコミック」1982年2月25日号(小学館)
今回の「外伝」では、忍者同士の戦いや必殺技に重点を置くよりも、身分制度に疑問を持ち追われる者が、何を思い、いかなる希望を糧として生きてゆくか、という作品の主題を色濃く前面に出してゆきたい。
「カムイ外伝第二部」連載開始号。
「ビッグコミック」1989年3月10日号(小学館)
忘れえぬ人 白土三平

私の手塚さんの作品との出会いは戦後まもない頃でまだ闇市が栄え、買い出しに明けくれていた頃である。世の中は殺伐として、娯楽もなく、マンガの作品も少なかった時代だった。あの小さくて粗末なつくりの本を、少年たちはとびつくように貪り読んだものである。あの「ロストワールド」がボロボロになってもまだ丁寧に廻し読みしていた光景が記憶にある。気がついてみたら、私もいつかこの世界でメシを喰っていたのだが、手塚さんは我々の偉大な先輩であると共に、多くの日本人にとっても忘れえぬ人でありつづけるだろう。人の宿命(さだめ)とはいえ、実に残念である。
手塚治虫の死去によせた言葉。「COMIC BOX」1989年5月号(特集「ぼくらの手塚治虫先生」)にも再掲載される。
小島剛夕遺稿集「華別れ」(2000年5月20日発行/双葉社)
戦友という言葉が通用した時代があった。紙芝居、貸本屋時代を生き抜いた同志でもある剛夕さんには幾度か危機を救ってもらった。『ガロ』という雑誌が発刊されて間のない頃だったろうか……赤字つづきの『ガロ』を何とか軌道にのせようと昼夜問わず闘っていた。房総の、とある商人宿に籠り、私がストーリーをプロット化すると即剛夕さんが下絵を入れ、それを編集者が持ち帰り、アシスタント達の手に依って仕上げられていった。隣りの部屋からは、ヤクザ同士の喧嘩のやりとりが聞こえ、裏からは、K鉄道のバス終着駅の車掌(女)寮の酔った嬌声などが、けっこう耳を楽しませてくれたが、我々はその間も手を休ませることなく仕事を続けていた。その当時から剛夕さんの時代考証の確かさと作品に対する感情導入、筆さばきの妙は他の追従を許さぬものであった。たしか、つげ義春氏も共に居た様に記憶している。当時、彼はスランプでブラブラしていたが、仕事の合間には我々と共に宿の下を流れるエスミ川で釣りを楽しんだり、山へ茸狩りの散策に出かけたりして気晴らしをしていたものである。その収穫物が単調な宿の食事に色どりをそえて呉れたものであった。―その後、つげ氏は大多喜周辺をモチーフにした作品を皮切りに次々にすばらしい異色作を発表していったのである。今、想い起こせば、あの当時は劇画界の戦国期だったのだろう。想い出を書きつづればきりが無いだろう。その剛夕さんと私は別々の戦線へ旅立つのだが、劇画家でなければわからぬ様な多忙で苛酷な時が矢のように流れていった。突然に彼の悲報に接した時には大きな衝撃を受けたものである。懐かしさと尊敬をこめて、ここに偉大な劇画界の巨匠に哀悼の辞を捧げる次第である。
小島剛夕の死去によせた言葉。文中「とある商人宿」は千葉県大多喜の旅館「寿恵比楼」、「K鉄道」は小湊鉄道、「エスミ川」は夷隅川のこと。
「ビッグコミック」2003年10月10日号(小学館)
自分としては「カムイ外伝」以前の、「神話・伝説シリーズ」が大きかった。実験的な作品だったのですが、ここまで一作家の冒険を許容してくれる商業誌というのは他にありません。編集部に本当に感謝しております。
創刊1000号によせた言葉。
「ホラーM」2005年12月号(2005年11月5日発売/ぶんか社)
カワハギの季節になり、近ごろは千葉の海に釣りに行くことが多い。釣った魚は自分で調理する。
作者近況頁「まんが家の地下室」内のコメント。掲載の白土作品は「赤目」の後編90枚。前編98枚が掲載されている11月号(2005年10月6日発売)の作者近況頁にはカムイ伝全集の宣伝文句のみ。 これは白土が直接書いたものではなく、編集部による聞き書きだろう。
原水爆禁止2007年世界大会への賛同メッセージ
白土三平 (漫画家) 「この星の一生命体として核兵器の存在を否定する」
http://www.antiatom.org/

白土と反核については、かつての「COMIC BOX」1982年10月号P28にこんな記事がある。 「一月末に、まんが家(小島功、白土三平、手塚治虫の各氏)を含む美術家33人が呼びかけ人となり「核兵器廃絶と戦争防止を訴える美術家の声明」を発表した」 漫画家を代表する3人を含んだ1982年1月31日のこの呼びかけは、直後に20人以上の漫画家を含む約550人の賛同を得、膨らんでいった。同時期に科学者・文学者の声明も発表されている。
「ビッグコミック」2009年9月25日号(小学館)
時代はなかなかに厳しいようだが、気負う必要はない。ただ自らの宿命を背負い、目の前の日々を生き抜く―カムイにとっては、それが自然なこと。 そんなしなやかで潔い意思とともに、この印傳財布を懐へ忍ばせてはいかがだろうか。
白土三平
グッズ販売のための広告文句。「白土三平公認 カムイ外伝 甲州印傳財布」へのコメント。劇場版カムイ外伝公開記念限定2000点。「白土先生のメッセージカード付き」とある。 伝統工芸士による手作りで34000円。 これは映画に協力した白土初の広告文句だが、私は個人的に映画「カムイ外伝」関連の白土の発言を真に受けない。 映画の宣伝に使われたコピー「初めて生身の、本物のカムイと会ったような気がする。それをひしひしと感じる。 ―白土三平(原作者)」についても、 これだけを見ると映画を観て白土が能動的に発した言葉、しかも自作品以上の「本物」に「初めて」触れた、ともとれる文になっている。 おそらくこれは意図的なものだが、これによって白土に対する感覚を変えざるをえなかったファンもいると思う。 実際には鼎談内容の一部であり、まず松山ケンイチが撮影時心身ともにカムイになりきっていたということを強く主張、これに対しての白土のリップサービスと思える受身の発言、それのみを切り出したものであるからだ。 「白土:そうですか。いや、今日は生身の本物のカムイと、初めて出逢った気がする」をキャッチコピー用に変化させたものである。この違いは大きい。 映画のパンフレットに収録のコメント「原作白土三平 映画『カムイ外伝』を語る」も内容は同じような応援文句に尽きている。
※白土三平名義単行本に収録のものは除いている。
※全て原文のままであり、誤字・脱字などもそのままにしている。
※一部ルビは小カッコ ( ) 内に書き入れた。