白土三平選集 詳細
第1巻 忍者旋風(一)
1970年12月5日発行(第14回配本) / 全386頁
本体末寄稿: なし
月報寄稿: 船床定男「漫画と劇画と映画」(全4頁)
SB「忍者旋風」第1巻と同じ内容。第1巻だが、実は発売は一番目ではない。「配本」という部分を見ていただければわかるのだが、全16巻中第14回目の刊行であった。映画「大忍術映画ワタリ」監督の船床定男による月報寄稿文は、1966年に脚本を持って赤目プロを訪ねたところからはじまる。自分は「白土氏の作品の大ファン」だと言った上で、意見の違いによる折衝についてこう書いている。「白土氏の主張するのは、テーマの破壊、部分的な映画的表現と原作の表現方法の違い等でした」「前記の白土氏の主張は当然だったのですが、私達は終始その会談の中で、漫画は漫画、映画は映画と言った態度で話し合いを続行したのです」。白土の主張はもっともだが、子ども映画では少しでも暗い部分を感じさせるようなことがあってはいけないという考えだという。そのように種々の問題を含んで、映画は夏休みにむけて公開された。子供たちは映画の中のワタリの行動力に拍手を送ってくれた、と書いた上で、「もちろん、白土氏にとっては、原作から遊離した個処に不満を感じられた事でしょう。映画的に安易な解決に顔をそむけられた事でしょう。でも、子供達の世界にワタリブームの風が吹き込んだことは事実なのです」と語っている。最後に、これからの希望として、「いつか又、忍者物を、私の願いとしては、カムイ外伝(カムイは現実に現在のテレビ映画界としては表現不可能)に息をかよわせて見たい物として忍者映画の夢を追いつづけております。白土氏の自由奔放な表現と、しつっこい迄の粘りを、映画としての面白さに振り替えて、見終わった後の観客に生きる希望と、人間としての行動力の無限を感じて貰いたいものだと念じながら、今後共面白い作品を世の中に送り続けて行きたいものです」と結んでいる。残念なことに船床定男は1972年に41歳の若さで亡くなっている。ちなみに氏は白土より誕生日が9日早いだけの同い年。
第2巻 忍者旋風(二)
1970年12月15日発行(第15回配本) / 全434頁
本体末寄稿: なし
月報寄稿: いいだ・もも「唯物史観マンガということ」(全4頁)
SB「忍者旋風」第2巻と同じ内容。最終頁もSB版と同じであり、この4年前に発行されたKDC版とは異なる(詳細)。
第3巻 サスケ(一)
1969年12月25日発行(第2回配本) / 全432頁
本体末寄稿: 尾崎秀樹「白土三平の歴史認識-白土三平論(その一)」(全9頁)
月報寄稿: 飯沢 匡「画(え)について」(全4頁)
SB「サスケ」第1巻から第2巻P61までの内容。「サスケ」の連載は雑誌「少年」1961年7月号からだが、「8月号」からというミスあり。また、白土の生年は1932年だが、本体寄稿文では父唐貴による間違った記述「1931年」をもとに書かれている。本体寄稿文では、「忍者」への時代による認識変化、文学作品の歴史観を反映した白土作品、白土氏の生い立ちと作品との関係性などについて推測交えて書いてある。劇作家飯沢匡による月報寄稿文では、白土三平台頭による人々の「漫画」認識への変化と、「劇画」(漫画を超えた漫画)といってもまだまだ自己確立していない未熟で拙い作家作品のほうが多いことなどを指摘している。作者写真は1966年初旬頃撮影のもので、KDC「真田剣流」第1巻(1966年)のものの流用。
第4巻 サスケ(二)
1970年4月10日発行(第6回配本) / 全416頁
本体末寄稿: 松永伍一「白土三平と血の誘惑」(全8頁)
月報寄稿: 権藤 晋「白土マンガの女性像について」(全4頁)
SB「サスケ」第2巻P62から第3巻P180までの内容。本体寄稿文は面白い。白土とさほど年齢は変わらないが漫画をほとんど読まずにきた筆者が、「思想が白土三平に似ている」と言われ白土作品と出会ったのだという話と、白土は作品をわざと史実通りに書かず、意図的に色を加えることで作品思想を成り立たせているという話。例を挙げ、白土作品「赤目」最後の「一七五四年有馬領…」という文章、実際の記録では集められた百姓の数は十六万八千余、鉄砲は千八百梃、槍六千本とのこと。わざと数を十倍にすることで反逆した百姓のエネルギーを過大評価しようとしているのだと書いている。またその一揆も勝利を得たものではなく、指導者の自殺、十八人を死刑、百数十人を追放、という実際には敗れた一揆だったのだという。その他にも白土がプロレタリア文学「目的意識論」の影響を受けていることなども書いているが、最後だけは厳しく「白土三平は作品の類型化をそろそろ恐れていい時期に来ているようだ」という言葉で締めくくっている。マンガ研究家権藤晋(高野慎三)による月報寄稿文では、白土作品の女性キャラクター螢火・鬼姫・アケミ・アテカ・サエサなどについて、とくに螢火について言葉を多く費やしており、白土自身が彼女に惚れて描いていたのだろうと述べている。
第5巻 サスケ(三)
1970年5月10日発行(第7回配本) / 全416頁
本体末寄稿: 尾崎秀樹「白土三平の歴史認識-白土三平論(その二)」(全10頁)
月報寄稿: 赤瀬川原平「投稿少年のつぶやき」(全4頁)
SB「サスケ」第3巻P181から第4巻P214までの内容。作者写真の頁に自画像「夏毛・冬毛」を描き載せている。本体寄稿文、はじめは初期作品「こがらし剣士」「消え行く少女」について語り、次に「サスケ」(ここでも連載開始月・終了月記述共に間違っている)を五味康祐著「柳生武芸帳」との対比で述べ、最後に連載中の「カムイ伝」についてこう書いている「この社会的構成を追う作者の眼は、そのまま日本の六〇年代を見る眼にかさなる。それが七〇年状況のなかでどうひとつの結節点をつくるかは、むしろこれからの展開によるのだ」。画家・赤瀬川原平による月報寄稿文は、「劇画」について語っているものだが、「白土三平」については全く触れていない内容となっている。
第6巻 サスケ(四)
1970年7月10日発行(第9回配本) / 全370頁
本体末寄稿: 石子順造「視線が織りなす殺人劇」(全10頁)
月報寄稿: 佐野美津男「まんがに関する断片的感想」(全4頁)
SB「サスケ」第4巻P215から第6巻P16までの内容。本体寄稿文は、第3巻寄稿文「画について」への同意から始まり、白土作品の描線描法視点などについて書いている。作家佐野美津男による月報寄稿文は、自身の漫画原作執筆生活記や昔と今の漫画界の変化を書いているのだが、「白土三平」については全く触れていない内容となっている。月報の「編集室だより」内で、「ワタリ」は第三部まであるのにどうしてこの選集は第二部までしか発行しないのか、という様な質問があり、「残余のワタリは確かにありますが、実情を申上げますと、作者が病気のため、執筆不可能になり、窮余の策として、赤目プロの方々が代作されたものです。従って、厳密な意味で白土作品とは申せないものです。選集刊行に当り、作家の良心として、先生はそれを拒否した次第です。この間の事情、ご賢察いただきたいと思います」と答えている。
第7巻 サスケ(五)
1970年8月10日発行(第10回配本) / 全396頁
本体末寄稿: 佐々木守「劇画・そのドラマ性について」(全11頁)
月報寄稿: 水木しげる「真黒な足の裏」(全2頁)
SB「サスケ」第6巻P17から第7巻P68までの内容。本体寄稿文は、白土三平が作り出した劇画形式が現代化した昨今の劇画ブーム(スポーツ根性もの)は、かつての白土劇画と大きく変わったように見えて実はドラマ性という面で繋がっているという話と、白土作品の題名・技を含むネーミングセンスの詩的な雰囲気などについて語っている。終盤、「なぜ劇画から「サスケ」が消えてしまったのか。それはもっぱら白土三平のテーマ性のみを問題にして、方法論にまで至ることができなかった多くの社会学者的論者たちの責任でもあるのかもしれない」と書いている。漫画家水木しげるによる月報寄稿文は、七、八年前白土と初めて会った時の衝撃をユーモアを交えて書いたものであるが、この出会いについての話は水木の他の書籍でもたまに見掛ける。一部抜粋すると「顔の色は駅のベンチ(古いもの)のようであり、顔半分を隠したヒゲのものすごさにびっくりした。長井氏(青林堂)の話では、たしかこのプラットホームに「稀代の天才」がまっているという話だった。あたりにそれとおぼしき人物はいないかと首を回してみたがベンチの「真黒な足の裏の男」以外に人はいない」「推理を重ねているうちに、その人物は動き出した。「三平さんですか」ぼくは言った。(言ったというよりむしろ叫んだ。)「うわうわうわ」言葉でない言葉がもれた。一体ぼくはこの原始人と対決して、これからどうなるだろう」「氏はその時夫婦喧嘩の話をしながらマカロニーをおごってくれた。氏はなおも夫婦喧嘩の話に熱中し、厚さ五センチの板を割ったとか割らなかったとか」。この時の衝撃体験から水木は白土モデルの原始人(「カモイ!」と叫ぶ)を登場させる「カモイ伝」という社会風刺的漫画作品を生み出し「月刊漫画ガロ」に発表した。

※水木しげる作品「カモイ伝」:1965年10月25日脱稿。全15頁。「月刊漫画ガロ」1966年1月号に掲載。
※この出会いについての漫画版には、文庫本「水木しげる伝(下)戦後編」(2005年1月12日発行)で触れることが出来る。ちなみにこの本は、単行本「ボクの一生はゲゲゲの楽園だ」第5・6巻(2001年9・10月発行)を改題、再編集したものである。 ほかに同じ部分をもう少し細かく漫画化した「貸本末期の紳士たち」(1996年)があり、これは文庫本「東西奇ッ怪紳士録」(2001年10月発行)や文庫本「マンガ家誕生。」(2004年4月発行)、文庫本「ビビビの貧乏時代」(2010年3月23日発行)などに収録されている。
第8巻 サスケ(六)
1970年9月10日発行(第11回配本) / 全386頁
本体末寄稿: なし
月報寄稿: 三浦朱門「劇画ブーム」(全4頁)
SB「サスケ」第7巻P69から第8巻P130までの内容。作家三浦朱門による月報寄稿文は、「劇画」について語っているものだが、「白土三平」については全く触れていない内容となっている。この作者写真はのちにBCSP「白土三平」(1998年)にも収録された。
第9巻 サスケ(七)
1970年10月10日発行(第12回配本) / 全416頁
本体末寄稿: なし
月報寄稿: 石堂淑朗「劇画寸感」(全4頁)
SB「サスケ」第8巻P132から第9巻P219までの内容。シナリオライター石堂淑朗による月報寄稿文は、「劇画」について語っているものだが、「白土三平」については全く触れていない内容となっている。
第10巻 サスケ(八)
1970年11月10日発行(第13回配本) / 全392頁
本体末寄稿: なし
月報寄稿: 石子順造「劇画について思うこと」(全4頁)
SB「サスケ」第9巻P221から第10巻ラストまでの内容。美術評論家石子順造による月報寄稿文は、外国のマンガ形態の紹介と、貸本屋から現在の劇画への移り変わりなどを書いている。一部抜粋すると「古本屋を兼ねた貸本店という形態は、戦時中からあり、貸本店として専門化したのは、昭和二十二、三年頃からだったらしい。そして三十一、二年には全国で三万軒の貸本店を数え、ピークを迎えていた。辰巳ヨシヒロが貸本向けの自作の短編に、劇画と銘うったのも、三十二年のことであった」「多くの≪インテリ≫たちの白土評価がずれたりするのも、かれらが貸本マンガの真の愛読者ではなく、そのメディアとしての特性にすら気づかずに、メッセージとして文学論的にしか享受できないからではなかろうか」「貸本店がゆっくり姿を消していくうちに、劇画はブーム視されるようになり、かつての劇画家たちは大へんな売れっ子になっていった。そんななかで、ひどく安い画料で「カムイ伝」だけをつづけている白土三平と、めったに筆をとらなくなったつげ義春の表現者としての在りようは、一体何を意味するのだろうか、とぼくは思わないわけにはいかない」。
第11巻 真田剣流(一)
1970年2月10日発行(第4回配本) / 全416頁
本体末寄稿: 森 秀人「白土三平の魅力」(全8頁)
月報寄稿: 副田義也「「少年マンガ」と「子ども漫画」」(全4頁)
SB「真田剣流」第1巻から第2巻P100までの内容。本体寄稿文は、「おびただしい彼の忍者マンガは、人間としてよりも苛酷な試練を耐え抜いてきた樹木や、魚や、獣などに近似している」という文章などからなる白土作品の動物描写・自然描写論に始まり、子供と大人を巧く書き分け、そこから作品世界の多様性が生まれていることなどを指摘している。「大人を子供にした」描写であった漫画世界で白土作品は初めて「本当の子供」を描いたとしばしば言われているが、例えばここでも「ミニスカートではないが、白くて長い素足を露出させている少女の自然忍法は、読者にさわやかなエロチシズムを感じさせてくれる。自然忍法だから、公式忍法や正当忍法にもとより勝てるはずがないのだが、白土三平はこの自然忍法の健康な成長を夢みるロマンチストであるからして、かの少女たちはつねに生き生きとして、行動的でエロチックな存在である。一方、少年太郎は、その醜怪な面貌によってわれわれをおどろかすのであるが、それは幼児にみられる魔性の体現であろう」と、子供の不可知な神秘世界、子供の想像力で満たされた世界を作品から感じ取っている。東京女子大助教授副田義也による月報寄稿文は、筆者が従来の「子ども漫画」より「少年マンガ」という表現に魅かれる理由として「前者(子ども)はおとなから指導・保護される世代という印象がつよいのにたいして、後者(少年)はばあいによってはおとなと対立しながら自ら成長してゆく世代という印象がつよいからでした。また、私の職業柄からいえば、子どもは教育学の対象でありますが、少年は人間学の対象だともいえます」と語っている。また、「少年マンガ」との対比として「青年マンガ」を持ち出し、「マンガ」は現在各世代固有にあった文化が相互滲透し、垣根が無くなってきている分野であるということを早くも指摘している。
第12巻 真田剣流(二)
1970年6月10日発行(第8回配本) / 全400頁
本体末寄稿: 草森紳一「天上的視野と地上的視野-「真田剣流」の主人公は誰なのか-」(全10頁)
月報寄稿: 阪本牙城「漫画よ驕るなかれ」(全4頁)
SB「真田剣流」第2巻P101から第2巻ラストまでの内容と、短編作品「剣風記」「七方出」「無三四」を収録。本体寄稿文は、「真田剣流」は中心人物がいるわけではなく、中心人物に匹敵する存在がはっきりしているわけでもないのに何故面白いのだろう、という、今まで地上的な主人公に慣らされてしまった自分が、主人公不在の天上的な視点の作品を読み感じた「中心のないつらさ」を語っている。漫画家阪本牙城による月報寄稿文は、「「漫画」の呼び名は岡本一平さんあたりが始まりかも知れない」などと漫画の歴史について語っているものだが、「白土三平」についてはほとんど触れていない内容となっている。
第13巻 風魔
1971年1月10日発行(第16回配本) / 全376頁
本体末寄稿: なし
月報寄稿: 森 秀人「開拓者としての劇画作家」(全4頁)
SB「風魔」全1巻と同じ内容。全16巻中、最後(第16冊目)の刊行。評論家森秀人による月報寄稿文は、マンガの発展について語っているものだが、「白土三平」についてはほとんど触れていない内容となっている。
第14巻 ワタリ(一)
1969年11月20日発行(第1回配本) / 全400頁
本体末寄稿: 副田義也「支配と抵抗-白土三平「ワタリ」小論」(全9頁)
月報寄稿: 草森紳一「白土忍法とその「解説」の術」(全4頁)
SB「ワタリ」第1巻P391までの内容。本体寄稿文は、「支配と抵抗」という主題を軸として、「ワタリ」を語っている。「忍者武芸帳」や「カムイ伝」と異なる支配と抵抗の形、「ワタリ」は政治的な角度からそれを表現しているのだということを細かく分析した文章となっている。評論家草森紳一による月報寄稿文は、白土作品の「解説」(文字註釈文)にスポットをあて書いている。一部引用すると「「すでにごぞんじのことと思う。」といった一種の脅迫語が、たびたびはさまれていて、読者としてはたとえ知らなくても、「いいえ、私は知りません。」といえない仕組になっている。一応読者の知識をたてているいいかただから、知らなかったら恥であり、知っているような顔をしていたいのが人情でもあり、そのためにもがむしゃらに彼の解説のいわんとするところを、覚えこもうとするだろう。たとえ前承知の読者でも、知識などというものは曖昧なものだから不安になり、このチャンスに完全に覚えてしまおうと努力するだろう。これは白土三平独特の作劇上の忍法だといわなくてはならない」と、書き、「「いうまでもない」などといって脅迫し、「それらは、そのときどきにすこしずつ、説明していくことにしよう。」などといって読者を釣り、かつ誘いこむのである。しかしこの解説精神にはもう一つの裏があって、作者自身の一呼吸の休みをとるためとか、作品の内容が交錯して、自分でもあやふやになり、それを整理する場にもなっている」と纏めている。的を射ているように思う。作品の作者は支配者であり、「カリスマ」でなければならない。「解説」による呼吸の中断は、読者を自分の世界に引っ張り込む技でもあるのだ。やはり赤目プロ代作の「ワタリ」第三部は、この「解説」が無い分白土三平的な魅力が薄くなってしまっていることは確かである。第1回目の配本ということで今号の月報には、白土三平のプロフィールも載っている。作者写真は1966年初旬頃撮影のもの。
第15巻 ワタリ(二)
1970年1月10日発行(第3回配本) / 全408頁
本体末寄稿: 石子順造「忍者社会における内ゲバとは何か-「ワタリ」小論-」(全9頁)
月報寄稿: 梶井 純「白土作品にみる<子ども>像」(全4頁)
SB「ワタリ」第1巻P392(の前に2頁分、連載時の前巻ラストの書き直しのような頁があるのだが、SBでは流れ上削除されている)から第2巻ラストまでの内容。本体寄稿文は、「ワタリ」は、「おきて」の中での「内ゲバ」から、その外に出るための「内ゲバ」への移行の物語だと論じている。0の忍者の存在についても「下忍はつねになんらかの支配権者を自ら必要としたのである。そうした統治者がいなくなってしまったなら、自分たちは、「あんしんしてはたらく」忍者でさえなくなってしまいかねないだろう。だから二人の首領から一人の首領へ、そして二人の大頭へ、また一人の大頭へ、さらに0の忍者へと変転する劇は、下忍たちの忍者としての反抗の限界によってしても、保障されていたといわなければならない。おそらく白土が描きたかったのは、そのことだったろうとぼくは思う。下忍たちによる上、中忍への反抗ではなく、そうした反抗全体を通して、自らが忍者であることを失う否定を、すなわち忍者社会全体の否定を、である。忍者社会の全的な否定とは、とりも直さず忍者を必要とするような社会の変革、よりトータルな自由と平和な共同体への志向にちがいない」と書いている。梶井純による月報寄稿文は、「忍者武芸帳」内で影一族の子供時代を描いていることや、「死神少年キム」のキムなどについて書いているのだが、そこでの「子供」の存在はキャラクターがもつ思想や輪廻転生という主題を表すための計算された方法であるのだと語っている。作者写真は1966年初旬頃撮影のもので、「ロマンアルバム10 忍風カムイ外伝」(1978年)にも収録された。
第16巻 ワタリ(三)
1970年3月10日発行(第5回配本) / 全420頁
本体末寄稿: 村山知義(1901-1977)「三平漫画について」(全10頁)
月報寄稿: 斉藤 憐「白土三平の「劇画」の手法は?」(全4頁)
SB「ワタリ」第3巻と同じ内容。本体寄稿文は、小説「忍びの者」の作者・村山知義によるもの。白土の父・岡本唐貴との古くからの友人(プロレタリア美術運動家)だということもあって、その思い出話や思想のやりとり、唐貴の性格や仕草と白土のそれを書き、父から受け継いだ「変人」性を語ったりしている。白土の生年記述も正しく、「ワタリ」の分析なども興味深い内容だ。白土親子を呼び捨てである分、異色でとても面白い内容の寄稿文となっている。演出家斉藤憐による月報寄稿文は、著者が戯曲「赤目」を書くにあたって白土家を訪ねた時の様子などが書かれている。「夏を過ぎていたが内房は暖かった。奥さんが四時に戻りますというので、浜で三時間ほど昼寝をしたのを憶えている。帰る時間がピッチリ決っているのだから、仕事の打ちあわせかなにかと思っていた。四時に帰ってきた三平氏は大きなカゴをしょって、息子さんを連れていた。カゴの中からは山の幸がいっぱい。近くの山に行っていたのだという。とにかく恐ろしく背が高く、がっちりとした体で、真黒に陽焼けした顔とするどい目−−忍術なんか使わなくても、ものの一分で僕はコテンコテンにのされちまうだろう。「真田剣流」の風魔の太郎が本当の白土氏に違いないと、決めていた僕は、実は三平氏は、「武芸帳」の「岩魚」だったことに気付き、例の写真なんかも氏の「術」の一つに違いないなどと考えていた。お邪魔して、一時間程、話したか……福田善之の「袴垂れはどこだ」は、とても面白かったとか、大島渚の「忍者武芸帳」は観に行ってはいないが、なんか全編チカチカしてたみたいだとか。とにかく、その日は僕の台本を置いて、上演許可を下さるようにとお願いして帰ってきた」。四、五日して、台本の中での白土(劇中:三郎)の描写について「漫画というものが、こう簡単に描けたりしない」という怒りの返事が来たらしいが、何度かの書き直しの後、演劇「赤目」は無事開演した。作者表情小写真は、表情拡大で反転させ載せてあるが、初出は現代コミック6「白土三平集」(1970年)で、「完全復元版 忍者武芸帳」内の「白土三平研究」や、BCSP「白土三平」(1998年)にも収録された。