赤目プロダクション戻る
概要
株式会社赤目プロダクション、通称「赤目プロ」は白土三平作品を制作、宣伝するための組織である。 「月刊漫画ガロ」誌上に作品「カムイ伝」を連載させるため、1964年に設立された。 設立からの約3年間は「カムイ伝」執筆の原稿料が出なかったため、白土は赤目プロに給料が払えず、他の雑誌にも作品を書くことで生計を立てていた。組織は自然と大きくなっていった。 以後作品のペン入れは、ほぼ全てアシスタントたちの手によるものとなる。 「COM(こむ)」1967年10月号には、アシスタント数0人、製作協力者数7人、親族協力者数2人(鉄二と真か)と書いてあり、「赤目プロ(白土三平):アシスタント形式はとっておらず、それぞれ独立したガロ系のまんが家が、そのつど製作に協力している。かなり長期にわたってこの関係が保たれていることは、この業界ではめずらしいことである。(編集部)」との記述がある。白土の意識の中では「アシスタント集団」ではなく「製作協力者」という認識だったのだろう。 楠勝平作品集「彩雪に舞う…」楠勝平(2001年2月28日発行/青林工藝舎)の巻末資料では、赤目プロ発足が「1963年」となっているが、私は1964年説を使用する。 ガロ創刊の1964年は漫画週刊誌台頭による貸本漫画衰退の時期であった。当時の人気貸本漫画家であり、白土より年長の小島剛夕が赤目プロに入ったのもそれが理由である。 1966年3月末に発売された「月刊漫画ガロ」1966年5-6月号(第21-22号)と、1967年8-10月号(第36-38号)には赤目プロアシスタント募集の広告が載っている。 メンバーの各々については下に詳述した。
ロゴ
※「月刊漫画ガロ」1964年9月創刊号裏表紙より、白土の描いたロゴ

上のパターンのロゴは1966年3月号(第19号)まで使用された。次号1966年4月号(第20号)以降は大きく描き直されたものが使用されている。 以降の裏表紙ロゴ、1966年6月号(第22号)までの背表紙ロゴ、中期・後期単行本証紙使用のロゴは同じものだが、 1966年7月号(第23号)以降の背表紙ロゴと、1966年末まで使用された初期単行本証紙のロゴは、よく見ると微妙に異なっている。


※左から「月刊漫画ガロ」1966年7月号(第23号)以降の背表紙ロゴ、前期・中期・後期単行本証紙

グッズに貼り付けられた証紙のロゴはまた全然異なっている。


※左からB6貸本「白土三平傑作選集」第一巻「剣風記」(1966年2月20日発行/東邦図書新社)の背表紙ロゴ、ソノシート「サスケ」(1968年12月12日発行/330円/朝日ソノラマ)のグッズ証紙
赤目プロ作品名 詳細
蒟蒻 読切38頁/「週刊少年サンデー」1969年8月10日号(33号)/小学館
※原作:岩崎稔 ※構成・画:小山春夫 ※スタッフ:岡本鉄二・小堀順子・小井戸繁一・国本サチ子

フルカラー扉頁付き。白土の原作を使わない「赤目プロ」単独作品。「週刊少年サンデー」1969年5月25日号(22号)までの連載作品「サスケ(リメイク版)」と、「小学二年生」1969年6月号までの連載作品「サスケ(絵物語版)」の終了に続けて発表された。 「蒟蒻(こんにゃく)」と「三代目不知火(さんだいめしらぬい)」は2週連続で掲載された。


※「週刊少年サンデー」1969年33号より
三代目不知火 読切31頁/「週刊少年サンデー」1969年8月17日号(34号)/小学館
※原作:李春子 ※構成・画:小山春夫 ※スタッフ:岡本鉄二・小堀順子・小井戸繁一・国本サチ子

フルカラー扉頁付き。脱稿日記述なし。作品の雰囲気は、続く連載「源とツグミ」に繋がっている。


※「週刊少年サンデー」1969年34号より
源とツグミ 連載15回/「週刊少年サンデー」1969年9月14日号(38号)-12月21日号(52号)/小学館
※原作:李春子 ※構成・画:小山春夫 ※スタッフ:岡本鉄二・小堀純子・小井土繁一・国本サチ子
 第1話「めしと仇とがきどもと」全28頁/脱稿日:記述なし ※カラー扉
 第2話「よくばり女とイカスやつ」全28頁/脱稿日:記述なし
 第3話「うそとホントと百姓と」全32頁/脱稿日:記述なし
 第4話「子もりうたと秋の風」全31頁/脱稿日:記述なし
 第5話「牛どろぼうとお花ちゃん」全31頁/脱稿日:記述なし
 第6話「だんごときちがいと流れ雲」全28頁/脱稿日:記述なし
 第7話「ひでりと鬼とほとけさま」全31頁/脱稿日:記述なし
 第8話「キツネと美人とゆうかい魔」全28頁/脱稿日:10月7日
 第9話「意地悪ばばあとひとつぶの涙」全29頁/脱稿日:10月14日
 第10話「男一匹御意見無用」全28頁/脱稿日:10月20日
 第11話「拳銃とバラの花」全28頁/脱稿日:10月28日
 第12話「雪となさけと憧れと」全30頁/脱稿日:11月4日
 第13話「いわしの頭も信心から」全30頁/脱稿日:11月12日
 第14話「逢うは別れのはじめなり」全30頁/脱稿日:11月17日
 第15話「集まれガキども進めガキども」全30頁/脱稿日:11月24日

第1話のみフルカラー扉頁付き。前作に続き絵は「小山春夫」とクレジットされている。小山はコマ割り担当で、実際に作画の中心となったのは鉄二である。それでも後半、話によっては小山絵要素の強いものもある。 「まんだらけZENBU」第14号(2002年3月20日発行)の小山春夫インタビューにおいて、「これは鉄二さんですね」と語っている。 鉄二が作画の中心としてクレジットされないのは、作品のコマ割りまでには関わらない「画の人」だからだろう。 この姿勢は「カムイ伝第二部」で鉄二の名が大きくクレジットされるまで続く。

この作品に対しては、「うる星やつら」「めぞん一刻」などで有名な漫画家の高橋留美子が、「少年サンデー」史上最も心に残る作品だと「週刊少年サンデー」1999年18号誌上で公言している。 白土夫人である原作の李春子は作品欄外(ハシラ)でこう語っている「子どもに口出しし、子どもの世界を、理解しない教育ママがふえすぎている」 「ほんとは、おとうさんやおかあさんに読んでいただきたい。そして、わが子を、第二話に出て来た、過保護のわがまま姫のようなこどもではなく、源たちのような元気な子にしてほしい」。


※「週刊少年サンデー」1969年40号より(P178-179)
林崎甚助シリーズ 連載5回/「デラックス少年サンデー」1969年11月号-1970年3月号/小学館
※構成・画:小山春夫
 第1回「渇き」全43頁/脱稿日:9月1日 ※原作:李春子 ※スタッフ:岡本鉄二・小堀順子・小井土繁一・国本サチ子
 第2回「かまいたち」全32頁/脱稿日:10月1日 ※原作:李春子 ※スタッフ:岡本鉄二・小堀順子・小井土繁一・国本サチ子
 第3回「笹舟」全34頁/脱稿日:11月1日 ※原作:岩崎稔 ※スタッフ:岡本鉄二・小堀順子・小井土繁一・国本サチ子
 第4回「野犬」全32頁/脱稿日:12月10日 ※原作:小堀純子 ※スタッフ:岡本鉄二・小堀順子・小井土繁一
 第5回「山鳴り」全48頁/脱稿日:1月15日 ※原作:小井土繁一 ※スタッフ:小堀順子・小井土繁一

連載第1・3・5回がフルカラー扉頁付き。その内第1・3回扉絵は鉄二の絵で、「カムイ伝」連載中のガロ表紙と同じ雰囲気が味わえる。同じカラー扉絵でも第5回扉絵は小山の絵である。 「赤目プロ」名義の作品でも、この第5回目以降のものにはスタッフに鉄二の名が無くなる。 第3回「笹舟」のみが2002年発行の「傑作時代劇画セレクション The剣鬼」に収録されている。

犬鷲 読切47頁/「別冊少年ジャンプ」1970年4月号/集英社
※原作:西村寿行の小説 ※構成・画:小山春夫 ※スタッフ:小堀純子・小井土繁一

巻頭フルカラー16枚付き。2月9日脱稿。 「赤目プロ作品」は以降1973年まで短編長編合わせ約50作品ほどあるが、この作品より後の絵は完全に小山春夫単独の色合いになる。 もっといえば小山単独の作品と言っても差し支えのないものであるので、一応この「犬鷲(いぬわし)」と「泣く樹」は含めたが、この一覧からは除こうと思う。 何故かというと、鉄二が作画に関わったものの場合、白土の作品だと錯覚を起こすような面もあるのだが、以降の小山単独の絵の作品の場合、まずそういったことは思わないからだ。 以降の作品の内、1970年の「風炎記シリーズ」全6話と、1971年の「忍び無惨伝シリーズ」全5話が、単行本「小山春夫選集 第参巻 忍び無惨伝」(2006年10月25日発行/アップルBOXクリエート)として復刻されている。

泣く樹 読切/「漫画オール娯楽」1970年6月20日号/双葉社
※原作:李春子 ※構成・画:小山春夫
上記作品は、作者表記「白土三平 赤目プロ」作品を除く「赤目プロ」単独作品。つまり、プロダクションスタッフのみの制作で、白土は全く関わっていない。 その他レコード付属の絵物語に、1967年の「ワタリ/ワタリ一族の巻」と1968年の「サスケ/半蔵の対決」(共に絵本サイズとEPサイズが発売)、1969年の「カムイ外伝/忍法飯綱落し」がある。その内「カムイ外伝」の絵は一部DVD「忍風カムイ外伝」の第弐・四・六巻ジャケットにも使用された。 テレビアニメに関連した連載「サスケ(リメイク版)」「サスケ(絵物語版)」にも白土の関与はないのだろうが、作者表記部分に白土の名を冠しているのでこの一覧からは除いている。
白土三平 しらとさんぺい
当たり前ながら、全ての白土作品を創作し描く。 赤目プロ設立以降は白土がプロットを描き、赤目プロが完成させる形になった。プロットと言ってもコマ割り、ラフな下絵の段階までは白土が全て一人でおこなっている。 次の細かい作画の段階で、枚数の多さから小島剛夕が担当した「カムイ伝」前半、多忙から胃を壊した時期の「ワタリ」第三部、「カムイ伝」後半がある。 そのように、この時期は多忙のためアシスタント達に早い時期から作品完成の多くの部分を任せていたため、絵にバラつきがみえる。 第一次長期休載期間(1971年7月-1974年5月)以後は、アシスタント達がまとめて辞め、作品の発表は隔週刊誌「ビッグコミック」のみになった。 現在では弟・鉄二と2人で作品を完成させているため発表に時間がかかるようになっている。
デビュー以来筆名の変移は無いが、貸本時代に黒川哲名義で「鬼(誕生の巻)」という作品を発表しており、「月刊漫画ガロ」には、黒川新名義で1965年3月号から1966年1月号までコラム「目安箱」を書いている。 「目安箱」は白土本人だけでなく、妹の颯子が挿絵を書いたものなどもあるのでこれは身内全体の筆名ととってよいだろう。 命名は「白」「土」→「黒」「川」、セカンドネームは弟の鉄二・真からとったものだと推測される。 なお赤本「冒険ダルタニアン(時の珠の巻)」(1948年10月20日発行/玉林社)などを描いた初期漫画家の黒川新は別人である。 2007年、想田四が「まんだらけZENBU」第36号(2007年9月20日発行/まんだらけ出版部)に「白い土と黒い川 - 白土三平の別名をめぐって」というこの同名漫画家との謎についてのコラムを寄稿している。

※「鬼(誕生の巻)」の掲載された貸本「魔剣1」(1959年8月頃発行/編集:漫画作家会/あかしや書房)より口絵(P4)
白土は「夏毛・冬毛」という自画像を使用している。この自画像はまず「東京新聞」1964年4月9日付夕刊の「マンガ家自画他賛! 10」に添えられる。 この記事は「月刊漫画ガロ」創刊号・第2号、「美術手帖」1971年2月号(これには自画像のみ)にも再録されている。 「夏毛・冬毛」は単行本では「白土三平選集」第5巻(1970年)や、自筆では無いと思うが「人気まんが家なんでも百科」(1970年2月16日発行/講談社)にも載る(表紙には色付きの「冬毛」のみ)。 1977年発行「まんがNo.1」内の「まんが家小中学生時代のひみつ大公開!!」には全身付きの「夏毛・冬毛」があるが、これは清つねおが描いている。 「夏毛・冬毛」以外の自画像は、エッセイで自身フグの毒に中った様子のものと、BCSP「白土三平」表紙画がある。

※「ウルトラまんが手帳」(講談社)より
白土が自身の性格を語ったところでは1966年発行「別冊少年ブック風魔・総集編」に掲載の「白土三平先生と一問一答」や、 1977年発行「まんがNo.1」内の「白土三平ミニミニメモ」などがある。 下は「ウルトラまんが手帳」掲載の「絵による性格診断」からのもの。この本は1966年夏の「週刊少年マガジン」応募プレゼント品で、 他に掲載は癖「すごく感激したときは木に登る」や、髭の無い近影写真、プロフィールに「なりたかったもの:動物学者・仙人」「好きな言葉:不言実行」「ほしいもの:山の中を放浪できる自由な時間がほしい」と書いてある。

※「ウルトラまんが手帳」(講談社)より
下は1969年当時の人気雑誌に毎号掲載された「人気漫画家色紙シリーズ」のうちの一つ。サイン「三つの平」が添えられている。「月刊漫画ガロ」に連載中であった「カムイ伝」からのキャラクター正助。つげ義春は自分の息子にこの「正助」という名前をつけている。

※「月刊別冊少年マガジン」1969年11月号(講談社)より
岡本鉄二 おかもとてつじ
1933年、東京都西荻窪生まれ。白土作品を初期から手伝う白土の実弟。次男。絵の巧さでは白土と互いにライバル意識をもっている。 「カムイ伝」(第一部)連載時は、作品「ワタリ」「風魔」「狼小僧」(第三部)などの作画を担当した。 「カムイ伝第二部」以降、「作・構成:白土三平/画:岡本鉄二」と書くようになったのは、名前を載せたほうが鉄二のモチーベーションが上がるだろう、という白土の意識的な理由であり、ここで制作体制の変更がおこなわれたわけではない。 つまりは、今まで通りストーリー・コマ割り・ラフな下絵までを白土が行い、編集のチェック、最後に細かく絵を入れる部分が鉄二の担当であり、白土の最終チェックで完成となる。 ほかでは一般的であるストーリー段階から多くの人間が関わる漫画製作方法に比べて、白土は現在でもこういった部分で妥協を排している。 下の絵は鉄二が唯一「挿絵」としてクレジットされている単行本「赤シャツ少年団」からのもの。 長井の回想によると、この頃から鉄二は白土の作品手伝いを始めている。原作の赤シャツ少年団(パール街の少年たち)はハンガリーの作家フェレンツ=モルナールによって1907年に執筆された名作である。

※単行本「赤シャツ少年団」(原作:モルナール/文:西原康/挿絵:岡本鉄二/1959年1月25日発行/ひらかな世界名作15/金の星社)より挿絵の内1枚
岡本真 おかもとまこと
1935年大阪生まれ。白土の実弟。三男。白土旧作品の雑誌社再掲載への打診や資料写真を撮る。 赤目プロのマネージャーとして経理なども一手に担当。作品売り込みの天才的手腕で白土療養期の赤目プロ経済を支える。 1973年に株式会社「銀杏社」(外部編集プロダクション)を興す。 役者ではないが、1984年の映画「ときめきに死す」に新興宗教の会長・谷川役で出演している。 単行本「白土三平論」(四方田犬彦著)内の映画「太陽を盗んだ男」(1979年)出演という記述はこの映画の間違い。

※映画「ときめきに死す」(1984年/監督:森田芳光)より映画の一場面、手前が真
楠勝平 くすのきしょうへい
1944年1月17日生まれ。本名は酒井勝宏。長井勝一を訪ね、16歳の時に「酒井まさる」名義で作品を二つ発表する。長井の紹介で白土のもとを訪ね、1961年に「忍者武芸帳」のベタ塗りをするが、同年手術のために入院。1963年に「楠勝平」名義で新たに漫画家となり、貸本「忍法秘話」に発表を続ける。1964年に赤目プロに入り、1965年3月まで在籍する(「サスケ」第一部終了とほぼ同時に辞めている)。1968年にリメイク版「サスケ」(1968年7月28日号-1969年5月25日号連載)を手伝うために一旦戻る。この同時期小堀順子と国本サチ子も赤目プロに加わったようだ。生涯心臓の病と闘い原稿1枚描くのにも苦労する。楠の描く漫画は短編がほとんどだが、そういった自身の意識をよく反映している。1974年3月15日に30歳で逝去。私の好きな作品は「名刀」「おせん」「冷たい涙」「いざかや」「毒」「彩雪に舞う…」。2001年に作品集「彩雪に舞う…」が限定発売された。 「COM(こむ)」1971年11月号作者コメント欄の「私は、静かに私の死期を待っているのですよ……。アリャサ」というのが悲しい。
小島剛夕 こじまごうせき
1928年(手塚治虫と同日)、肖像画家の家に生まれる。本名同じだが読みが違う。白土より年上であり、デビューも先。 初めから手塚絵の影響が少ない独特な絵を描いたが、これは絵物語の挿絵画家から出発していることが理由。 描くのがとても速く、普通の人の3倍くらいの速さであったという。ふつう速く描くと崩れるが剛夕は崩れないで速く描いた、白土も「天下一」だと言ったまさに名人芸。 1964年、赤目プロに入り、「サスケ」第二部や「カムイ伝」の作画をする。月産100枚という「カムイ伝」の連載は剛夕無しでは実現できなかっただろう。 1968年初頭まで在籍し、続く「カムイ伝」作画は鉄二が引き継ぐ。その合間旧作品「狼小僧」の全面描き直しや、「忍者武芸帳」原稿紛失部分の描き直しもしている。 「カムイ伝」連載終了後も白土は剛夕に単行本が売れた印税を支払い続けている。 白土は剛夕から時代考証の確かさを学び、のちの画風も剛夕の影響を多分に受けている。 赤目プロに入った後も剛夕はひばり書房専属の漫画家であったため、他社で自身の作品を発表することは出来なかった。そのため、貸本「忍法秘話」第1巻(1963年9月10日発行)からは「諏訪栄」という筆名でも作品を発表した。 「サスケ」の連載時、「少年」1964年11月号付録本の部分、その単行本CC版で「1964年9月脱稿」と記述追加される部分が剛夕の絵であるのは、 丁度赤目プロの設立で剛夕が加わった時期であるからだ。これは「カムイ伝」第1回が1964年9月19日脱稿であるので執筆はその前後か。貸本「忍法秘話」第1巻の刊行から丁度1年後であり機は熟したのだろう。 その諏訪栄名義でガロ創刊号から5回に渡って「海原の剣」を発表。1967年12月に「週刊少年サンデー」に連載した「片目柳生」については、後に本人が「弟子の画風で描いた」と語っていることからもわかるように、 諏訪栄名義の作品は全て当時の「カムイ伝」の画風である。小島剛夕名義のものでも、1967年連載の「土忍記」「おぼろ十忍帖」などは単行本が比較的手に入りやすいので、当時の「カムイ伝」と絵を見比べてみるのも面白いかもしれない。 2000年1月15日に71歳で逝去。代表作は映画にもなった「子連れ狼」(原作:小池一夫)。私の好きな作品は「愚れ者」「試衛館の鬼」「首斬り朝」。 最後に話それるが剛夕が白土の画風に似せ「諏訪栄」というペンネームを使ったように、平田弘史も白土の画風に似せ「加治一生」という筆名で1965年にガロで雑誌デビューしている。 これは平田もこの時期赤目プロ加入の打診をされたことによっている。

※小島剛夕原画の紙芝居「忍者のサスケ」東京小平ライオンズクラブ(「まんだらけZENBU」第36号より)
小山春夫 こやまはるお
1934年生まれ。白土より年下だがデビューは先。「赤胴鈴之助」の武内つなよしのアシスタントなどを経て、1964年に赤目プロに入り1973年まで在籍。各作品のペン入れから仕上げまでを手伝う。 1967年、「ワタリ」第三部(1967年7月29日脱稿)作画を鉄二と共に担当。1968年からは「カムイ伝」の作画を鉄二の補助というかたちで手伝うようになる。 その合間「赤目プロ」クレジット作品のプロットをほぼ全て担当。自身の作品でも在席時は名前に「赤目プロ」を冠し、それは短編長編合わせ約50作品ほどある。 1965年の「忍法とびかげ」(「別冊少年キング」1月号)と、1969年の「蒟蒻」(「週刊少年サンデー」8月10日号)から1973年の「陽気蝮」第3回(「現代」4月号)までの全小山作品がそれである。 「忍法とびかげ」後の1965年から1969年「おゆき」(「月刊漫画ガロ」3月号掲載/李春子原作)までの作品には「赤目プロ」記述は入っていない。1981年以降は漫画を描いておらず、現在は趣味で苔の研究をしている。
下は季刊誌「歴史と現代」誌上の連載小説「犬神一族の陰謀」(坂口義弘著)の挿絵で、「白土三平・画」とクレジットされている。 しかしこれは小山春夫の絵であろう。ただの出版社側の勘違いか、それとも確信犯的なものなのか謎だ。 新連載の始まった創刊号(Vol.1-1/1980年8月25日発行)、第2号(Vol.1-2/1980年11月25日発行)に挿絵は無い。第3号(Vol.2-1/1981年4月25日発行)は未確認。 「歴史と現代」自体は第5号で廃刊し、この小説も全5回で未完になった。


※左と中央は「歴史と現代」第4号(Vol.2-2/1981年10月25日発行/歴史と現代社発行/新國民社発売)より全5枚の内3枚
※右は「歴史と現代」第5号(Vol.3-1/1982年5月15日発行/歴史と現代社発行/新國民社発売)より全3枚の内2枚

下は同時期の単行本「漂泊の民 山窩の謎-忍者カムイと出雲阿国-」(佐治芳彦著)の各章扉絵。イラストは全十章(11枚)ある。 これも「白土三平・画」とクレジットされているが小山の絵であろう。 上の小説「犬神一族の陰謀」の挿絵と同じ人物の絵も含まれており、「犬神一族の陰謀」用に描かれたものを使用した可能性が高い。雑誌の廃刊で連載が中断されたためだろう。 本の内容はサンカから日本人の源流を研究したもので、冒頭では白土忍者カムイなどにも触れている。


※「漂泊の民 山窩の謎-忍者カムイと出雲阿国-」佐治芳彦著・白土三平画(1982年6月15日発行/新國民社)より第2章・第6章・第8章の扉絵

これらは1979年の小山作品「千両の夢」(「月刊プレイコミック」2月号掲載)に登場する老婆の描写と上の挿絵を比較するまでもなく、完全に小山の絵なのである。 1980年初頭で漫画発表の場を失った小山、その後「白土三平」という名で挿絵が掲載され、一切の活動を停止した経緯を追うだけで少し悲しい。
池内誠一 いけうちせいいち
1947年4月3日生まれ。1966年(高校卒業直後)、赤目プロに入り主に「ワタリ」「カムイ外伝」「風魔」のペン入れをし腕を磨く。 1967年、「池内誠(いけうちまこと)」名義で「月刊漫画ガロ」6月号に「反乱」を発表。インタビュー記事によるとアシスタント期間は約1年間らしいので、おそらくこの掲載直前に赤目プロを抜けたのだろうと推測される。 その後「池内誠一」「いけうち誠一」と筆名を変え、現在ゴルフ漫画を描いている。 池内自身による個人サイトも存在したが2010年に閉鎖した。( http://www11.ocn.ne.jp/~pin-flag/ )
谷郁夫 たにいくお
「月刊漫画ガロ」1969年10月号掲載の「カムイ伝」第55回(1969年7月9日脱稿)から最終の第74回(1971年3月6日)の制作スタッフのクレジットに名前が入る。 少年マガジンコミックス「タイガーマスク12」1971年8月10日号に「風雲合気道」を発表、1972年1-2月「週刊少年マガジン」に「武士道」を連載、「週刊少年マガジン」1972年6月18日号(26号)から「男は清次シリーズ」を連載、1973年の少年マガジンコミックス「あしたのジョー22」3月号に「抹殺すべきもの」を発表している。 以降「谷いくお」名義で作品を多数発表している。連載モノでは「ザ・だっきんボーイ」(別冊漫画アクション)、「絶対もてない連」(週刊少年キング)、「ザ・まんだらボーイ」(月刊ギャグダ)などがある。
小井土繁一 こいどしげかず
赤目プロ作品の内、「週刊少年サンデー」1969年8月10日号掲載の「蒟蒻」から、「別冊少年ジャンプ」1970年4月号掲載の「犬鷲」までのスタッフクレジットに名前が入る。 「現代コミック」1970年5月14日号(第9号)にSF短編「マッド・マシン」を発表。以降「小井土繁(こいどしげる)」名義で作品を多数発表している。 「少年キング」1972年2月27日号(10号)に読切作品「熊ふぶき」全50頁を発表し、1975年10月発行の単行本「甲斐の若虎 武田信玄」(旺文社劇画歴史シリーズ)の作画、以降日本の歴史を漫画化したものを多数手掛けている。 挿絵や一部の絵というのならいざ知らず、「漫画」単行本の場合は漫画家の名前が表紙に載るのが当然だと思うのだが、小井土繁作品の場合、多分にそうでない場合があるので困る。
主な資料
※「「ガロ」編集長」長井勝一(1982年4月25日発行/筑摩書房) :楠勝平記述部分
※「熱烈オーエン大好きマンガ」夢本編集部(1992年7月31日発行/一季出版) :長井による楠勝平記述
※楠勝平作品集「彩雪に舞う…」楠勝平(2001年2月28日発行/青林工藝舎) :楠勝平記述全般
※「COMIC BOX」1982年10月号/特集:長井勝一「ガロ」編集長(1982年9月1日発行/ふゅーじょん・ぷろだくと):剛夕への印税支払い記述
※文春文庫ビジュアル版「幻の貸本マンガ大全集」(1987年3月10日発行/文藝春秋社) :長井勝一による小島剛夕「天下一」記述
※「月刊漫画ガロ」1994年9月号/対談:白土三平×長井勝一(1994年9月1日発行/青林堂)
※「まんだらけZENBU」第14号/小山春夫インタビュー(2002年3月20日発行/まんだらけ)